Present3
〈ギルド〉協会の会長ウィルソン・ターナーは、老人貴族の一人だった。つまり、延命技術で生にしがみついている御老体ということだ。彼らは過激に揺れ動いた二十一世紀を、能力と資産と運で生き延びた。そして〈財閥〉や〈ギルド〉の名誉職、権威として君臨している。国家がまともに機能しなくなってから久しいが、それは地球の財布の紐を、こういう連中が握ってきたからだった。
「なんで……」
チェンは初めて声を漏らした。
その声色には押さえつけられた怒りと、今更どうしようもない諦念が入り混じっていた。
まるでその声を聞いたかのように、テッドの遺言は語り出す。
《いま思えば簡単なことだった。ネオ・ラッダイトや人間原理主義の果てに〈ギルド〉というシステムができたのだから、そのトップに立つのはそういう思想の持ち主であるのは、決して難しい類推じゃなかったんだ。だけどこれは問題じゃない。本当に問題があったのは、元テロリストが体制のトップに立っているという事実なんだよ。まるで戦争に勝てば、原爆を落とそうとも処罰の対象にならないようなものじゃないか。そんな人間が人間賛歌を謳って〈ギルド〉の頂点に立っているだなんて、笑わせてくれるじゃないか》
声に嘲りの色がある。だがそれはむしろおのれ自身を嗤っているかのようにも聞こえた。
《僕はこの男について調べた。そして、僕自身が家庭を奪われたように、あいつの家庭から、〈ギルド〉の資産まで、徹底的に潰してやろうとしたんだ。僕が君と組んでからもなおブラック・マーケットに出入りしていたのも、あるいは、記憶屋のアニーに執着していたのも、このためなのさ。
……さて、思った以上に長く話し過ぎちゃったね。実を言うと、なんで僕がこういう遺言を残そうとしているのか、自分でもわかってないんだ》
空虚な笑い声が聞こえる。
だがその声は、すぐに掻き消えてしまった。
《……ジン。『味方殺し』の汚名をかぶって、〈財閥〉から追放された君と組んだのは、一方では隠れ蓑のつもりだった。だけど、長居はいけないね。情が移ったんだよ。僕はこれから君に、あるものを渡したい。そして、それはこのメッセージの後にある、一つのデータなんだ。それをどう使うかは君次第だ。僕は君を信じて、このデータをすべて渡すことにしたよ。もちろん無料でね》
そしてあとは二三の、つまらない言葉を呟いて、テッドは本当に『死んだ』。メッセージが終了したその直後に、メッセージそのものが自己消去を始めたからだ。
途端、止まっていた時間が、再び流れ始めたように感じた。雨の音が酷く五月蝿い。
だがその雨音にも掻き消されずに、溢れるような嗚咽が聞こえた。振り向くと、チェンが泪を噛み殺していた。
「バカ……兄貴のバカ野郎……ッ」
彼女は両手を目もとに押し当てて、懸命に堪えている。しかし、その試みも虚しく、泪はあとからあとへと続いて止む気配がない。ムリもなかった。たった一人の肉親すら、なにも言わずに逝ってしまったのだから。
孤独の苦しみ。信頼していたはずの相手の、突然のサヨナラは、どんな人間の心にも隙を作る。信頼のネットワーク。どんな技術の進展があったところで、人間の心の弱さは変わりようがない。
ふと足元に感触がしたので、見るとレオナルドがいた。彼は柔らかい毛を脚に押し付けて、何か言いたそうにこちらの顔を見上げている。
「ああ、そうだったな」
そのとき俺は思い当たる。テッドの最後の贈り物を手にし、レオナルドに高機能な首輪を返してやらねばならない。そして、空き容量が増えた記録媒体を取り出し、首輪を取り付けてやった。
「ふう、ようやく言葉が話せる」
「ご苦労様だな」
レオナルドの頭を撫でる。
そして、チェンの方を見やる。
「チェン」
彼女は答えない。心を閉ざしているようだった。
「チェン、すまない。この記録媒体を調べるから、もし帰るなら戸締りをしておいてくれ」
と言って、事務所を出ようとしたときのことだった。
「……なんで。なんで、ジンはそんなに冷静でいられるの」
振り向くと、チェンが泣き腫らした目で、俺を見ていた。
「まだ泣くべきときじゃない」
「そう……あたし、ダメだな。兄貴のこと、何にも知らなかった。兄貴がなにを考えて、なにがしたかったのか、それすらわからず、ただ〈アカデミー〉で呑気に過ごしてたんだ」
「無知は恥である、か」
「えっ」
「テッドと初めて組んだころ、よくあいつが言っていた言葉だ。だが俺はたまに思うんだ。無知でも幸せなら、良いのではないか、と。知って損することもある」
「そんなことない」
チェンの言葉は鋭かった。
「そんなことない。少しでも、相手のことを知っていれば、もっと何かわかっていれば、こうならずに済んだかもしれない。もっと何かできたはずだって思う」
「後悔は先に立たない。知りすぎたヤツも、知らなすぎたヤツも死んだ。それが情報戦線だ。知らなくていいものは、知らないままでいいんだ。汚いものまで見ている必要はない」
「でもッ、でも……」
チェンは自信を失ったように、視線を逸らした。
俺はその様子を見て、チェンのもとへと歩み寄った。
ああ、懐かしいな。情報さえ手にしていればどうにでもなると、能天気に構えていたころの俺にそっくりだ。いくら日ごろ親しんだ仲とは言え、そう言われると、腹が立ってくる。なんて甘い戯れ言を。それは昔への自分に対する怒りと、これから起こりうる惨劇への戒めであった。
屈んで、チェンの顔面に近付く。そして彼女の顎をつまみ、顔を上げさせた。面と向かわせる。
「自惚れるな。そのことを知っていて、テッドを死なせずに済ませられるとでも思ったのか」
チェンは黙った。目が泳ぎ、俺の視線を逃れようとする。
「何かあれば、何かしていれば……そんなことはもう過去のことだ。泣いて後悔しているヒマがあるなら何かできることをすればいい。グズグズと背後を見ている余裕はないんだよ。とにかく前を見て、死なないように脳味噌振り絞って、やれることやるのが先だ」
俺はそう言って、立ち上がる。
彼女がなにも言えないでいるのを確認すると、俺は大股で事務所をあとにした。
思わず、頬に泪が走った。




