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曇天の夜空は、相変わらず五月蝿かった。
俺は生まれてこの方、静かな夜というものを知らない。〈財閥=ギルド〉連合のホログラム広告が、所構わず騒ぎ立てているからだった。
"あなたの、あなただけの世界が、火星にはあります"
天を突き刺すような摩天楼。それらの隙間から覗く天空広告を視る。広告の右上に、地球標準時刻が表示された。二一〇九年・八月三日・二二:〇〇。時間通りだった。
俺は立ち食い蕎麦の屋台から立ち去った。
「ありやっしたァ」
背中から人工知能の声が聞こえる。設定は職人風のオヤジ。威勢の良い、力強い調子の声だ。
水溜りを、踏む。
俺は雑踏のなかに立ち、ゆっくりと首を廻らせる。都市を形成する複雑なネットワークが、喧騒に戯れる人びとの公開情報を俺に伝えてくる。それらは仮想体験型ゲームに出てくるステータス表示に似ていた。たぶん、コンタクトレンズに表示される公開情報が、拡張現実の視界とダブっているからだろう。
俺は陳列された商品を選り分けるように、人混みを観る。そのなかに一つだけ、今回の代理人のデータが混ざっているはずだった。
だが彼は来ない。
そのまま待って、三分が過ぎた。
地下鉄が一分遅れてもクレームが起きるこの国だというのに、待ち合わせ時刻に遅れるのはどうしたことだろう。いくら近年羽振りの良い磐座と言えども、傭兵を待たせるのは良いことではない。信頼はカネでは買えない。そんなことは硬貨や紙幣が絶滅危惧種になった今でも通じる常識というものだ。
《どうかしたのかい、ジン》
脳裏にメッセージが閃めく。相棒のテッドだ。
《代理人が来ない》
《あっちゃー》
額に手を当てる様子が思い浮かぶ。テッドのよくする仕草、個人を特定するための格好の材料だが、彼は惜しげも無く振りまいている。
《たぶんどこかから情報が漏れたんじゃないのか。磐座の家出娘は、奴らにとって格好の取引材料だろう》
《さあて、どうだろうね。僕はそこまで〈闇黒街〉のお歴々に伝わってるかどうかが疑問だけど……》
《常に最悪の事態を考えて動く。それがプロってものじゃないか》
《なるほど正論だ》と、指を鳴らすイメージ。《よし、僕はできる限りで彼らの行動履歴を漁ってみよう。ところで、そっちはどうする積りだい》
《どうもこうも、じっとしてるのは性に合わないからな。一足先に行かせてもらう》
《ご武運を》
通信が切れた。
俺は雑踏を掻き分けて歩き出した。人間の海。寄せる波と返す波とをよく見極め、雑多に入り乱れるなかを進む。
水溜りを、踏む。
街はようやく目覚めたばかりだった。立ち並ぶ屋台、〈ギルド〉の創作場や多国籍企業──〈財閥〉のオフィスが蜂の巣のように詰まったビル群、勤め帰りの技術士たち、そして彼らを付け狙うロボットの客引きたち……これら全ての要素が、ホログラム広告とネオンの光によって乱反射し、さながら万華鏡のように人間の営みを暴き出していた。
"AIよりも人間性を!"
ふと、人間原理主義のキャッチコピーが目に入った。彼らが機械破壊運動を展開していたのはあまり昔のことではない。だが、それらの事件は二十一世紀生まれの人間が冷戦について思い出すように近くて遠い壁に阻まれている。一時期は人工知能産業が宗教的禁止を蒙るかと思われるほどに酷かったらしいが、今ではどこもかしこもAIだらけだ。
人間原理主義自体はまだあちらこちらで燻っているみたいだが、もはや枯れ木のように魅力を失っている。結局のところ利便性が勝利したのだ。倫理や道徳はあとからいくらでも変わることができる。頭の固い人間が死に、柔軟な楽観主義者だけが先に行くのだ。テクノロジーとそれが叶える夢想への、飽くことなき欲望こそがこの街の喧騒を支えているのだった。
欲望はカネを呼び、モノを作り出す。モノは新たな欲望を生み出し、カネを糧にした永久機関のように都市が蠢く。その空騒ぎはどこまで続くのか。
水溜りを、踏む。
俺は都市の真ん中にぽっかりと空いた穴のようにある、廃棄された遊園地に辿り着いた。〈妖精の国〉。かつて磐座〈財閥〉がレクリエーションに熱心だったころの残骸。先代総裁の夢の名残り。それがこの遊園地の正体だった。
俺はスマートガンを抜いた。左手首に巻いた装着型端末とのリンクと指紋認証がつつがなく終わると、安全装置が外される。
ガンを構えると、俺は〈妖精の国〉の寂れた入場門を潜る。ちょうどその頃、路上の水溜りにはまばらに波紋が拡がっていた……