第七話「決意」
最後に「動機」という言葉が出てきました。タイトルの「動機」は莉乃が殺されかけた理由という意味でつけたので、深読みせずにスルーしてください。
さっきまで西向きの母の部屋に差し込んでいた日差しはもう完全に姿を消して、空はまた暗く先の見えない夜を迎え入れた。
夜働く百合は朝日の入らないこの部屋を自室にし、莉乃に南向きの部屋をあてがった。
お天道様の下を歩いて行きなさいというメッセージだった。
「あなたは、私とは違うのよ。明るい道を歩いていける人間なのよ。だって…」
帰宅した百合が、莉乃を学校に送り出す前に、朝日を見ながらたまにそう言った。
『だって…』の先は聞いたことがない。
どうしても、昔のことばかりが頭を過ぎった。
仕方がない…莉乃の時間はあの時から止まったままなんだから。
アメリカでの生活は、それなりに楽しかった。
はじめは、語学学校に通いながら、デサイナーの学校に通った。
5年間のモデルとしての経験は、デザインにも活きたし、語学の必要性は低かった。
何より、ほかにできることが浮かばなかった。
日本では高い莉乃の背丈もこちらでは標準だったし、日本でもてはやされた痩せた体は、こちらの人に言わせてば、セクシーさが足りないらしく、モデルとしてやっていくことは考えられなかった。
一年半も経った頃からは中堅デザイナーのアシスタントとして働き始めた。
時期尚早ではあったが、貯金も底を尽きかけていた。
それからは、何もかもを振り切るように、ただ毎日を忙しさで塗りつくした。
忙しさはつかの間でも充足感を与えてくれた。
それでも、胸に抱えた空虚な何かを払拭することはできないでいた。
周りの人々は気さくで、仕事の後はよくバーやクラブへ出かけた。
それでも、どこか人を信じきれない日々が続いた。
周りは言葉の壁のせいだと思っていたかも知れない。
莉乃も最初はそう思っていた。
しかし、言葉が流暢になっても、その壁は消えなかった。
それどころか、もっと心に入り込もうとする人を押し出すようになったのかもしれない。
温もりを求めて、関係をもった人もいたが、この状況ではどれも長くは続かなかった。
このままじゃいけない、そう思っても、どうしていいのかわからないままだった。
真っ暗になった部屋で、我に帰った。
時計に目をやる。
6:08PM−
俊之が来るころだろうか。
食事の支度をしようと思い、キッチンへ向かった。
―そう言えば、朝から何も食べていなかったな…
―カチャ…
ドアが開く音がして、俊之が入ってきた。
「ほれ、莉乃の好きな、『北海』のお寿司買って来たぞ」
俊之は、二つの包を渡した。
「ありがとう、叔父さん。覚えててくれたの?今お茶入れますね。その辺にでも座って」
今日初めて、交わした言葉だということに、莉乃は気付かなかった。
二人で寿司をつまみながら、莉乃はアメリカに行ってからの話をした。
俊之はうんうんと頷きながらそれを聞いていた。
莉乃の話が一通り終わると、俊之は重そうな口を開いた。
「それで、莉乃…この先どうするつもりだ?アメリカに帰るのか?それとも…」
俊之がどんな答えを期待しているのかは、読み取れなかった。
莉乃は質問には答えずに、今日見つけた、写真の裏のメッセージと切り取られた手帳について話した。
そして、悲哀のこもった瞳を向けて俊之に尋ねた。
「お母さんは何か知っていたのかな?」
小さな表情の変化すら見逃さないように、俊之の顔を凝視した。
俊之は驚いた様子もなく、俯いて、ひとつ大きめの呼吸をした。
「叔父さんも何か知ってるの?ねぇ、そうでしょ?」
莉乃は俊之に詰め寄っていた。
俊之は少し困ったような表情をして、ぽつりと告げた。
「あぁ…姉さんは知っていたと思うよ。誰がお前を殺そうとしたのかを…でも、姉さんは教えてくれなかったんだ。」
俊之が悔しそうに拳を握ったのがわかった。
その肩は少し震えていた。
俊之は、隠しておきたかった。
きっとそれは、莉乃を幸せにするような事実じゃないことだけはわかっていたから。
俊之自身、百合が何を知っていたのかは知らない。
百合は、決して言わなかった。
百合はそんな女だった。
強くて、何でも一人で抱え込もうとする…そう、莉乃を生んだ時も。
父親の名前を決して明かさない百合に、何をしても無駄だった。
百合は隠すことが、ひとりで抱えることが、周りを守るすべだと信じて止まなかった。
それがどれだけ、俊之を傷つけたのかを百合は知らない。
俊之は何度も無力感を味わった。
大好きな姉は、乳飲み子を抱えて奮闘している時ですら、俊之のことを気にかけてくれた。
そのときから、俊之は決めていた。
見守ろう、と。
―でも、姉さん。あなたが守った秘密は、こうやってあなたの娘をまた苦しませているんだよ…
アメリカの話をする莉乃を見て、やるせない気持ちになった。
きっと幸せではなかったに違いない。
そして、たった一人の母親の最期すら看取れなかった莉乃。
歯がゆさと、切なさばかりが募っていった。
しばらくの沈黙を破るように、莉乃は呟いた。
「私は、知りたい。どうして、私は殺されたのか、どうしてお母さんはそれを知っていたのか、何で隠していたのか。」
この3年半、百合だけを信じてきた。
そんな百合すら莉乃を裏切っていたのか、そう思うと居た堪れなかった。
意を決した莉乃は続けた。
「知らなきゃ、前へ進めないの。」
囁くような声には、強い決意が込められているようで、瞳は、鋭く光っていた。
俊之は思った。
―あぁ、どんな動機でもいい、この子が前を向いてくれるなら、それでかまわない。
「俺にできることなら何でも言ってくれ。」