第四話「シアワセと恋文」
思いがけなく、母の匂いに胸がいっぱいになる。
莉乃が知る限り、百合はずっと同じ香水を愛用していた。
強い思い入れがあったのだろうか。
50代に足を踏み入れた百合は、現役のスナック『Blue』を仕切るママだった。
その部屋には、派手な洋服、毛皮のコート、着物、宝石、貴金属、そして化粧道具、ほとんどが仕事のための品だった。
それらを眺めながら、ぐっと切ないものがこみ上げた。
―お母さん…幸せだったのかな?
薔薇の香り纏って、店へ向かった百合は、いつも酒と煙草の匂いを連れて帰って来た。
莉乃が知る限りでは、百合に恋人はいなかった。
贔屓の客とたまにデートに出かけたが、決して家に連れてくることはなかった。
恋や愛だけが幸せではない。
それでも…莉乃は胸の奥にかすかにだけ残る、シアワセの温もりを思い出そうとした。
あの大きな温かい手…たった一人だけ、本当に愛した男。
百合はよく、『莉乃がいるだけでいい。莉乃が私の幸せ』と言っていた。
その莉乃を海外へと送り出し、最期さえ知らせなかった百合。
一体百合は何を思っていた…?
窓際には、遺影と同じ笑顔があった。
その隣で幸せそうに微笑む莉乃…
浴衣で寄り添う二人は、もう遠い過去のものになってしまった。
―母はもういない。そして、私はもうこんな風に笑えない…“あの事件”の後から…
気づくと、写真立てを手に取っていた。
「…ん?」
写真の裏に何か書いてある。
『この子は私が守ります。あなたが私にくれた宝物だから』
手紙…?
その宛名のない短い恋文は…決意表明…?
莉乃の父親に宛てた、莉乃への、ラブレターだった。
―『姉さんは…守りたかったんだ。お前を…』
俊之の言葉がフラッシュバックする。
―お母さん、愛してくれてたんだね…ありがとう…
部屋の隅に積まれた雑誌に目をやる。
―まだ取っておいてくれたんだ…
百合はいつも莉乃の載った雑誌を買い集めて、お客に見せびらかして、終いには売りさばいていたっけ…
「クス…」
笑ったとたん、下がった眼尻からまた、キラキラした滴が零れおちて、目の前が曇った。
―ああ…あなたもまた、手の届かない人になってしまったんだね、お母さん