第三話「追憶」
目を覚ました莉乃は天井を見つめてため息をひとつついた。
―やっぱり、夢じゃないんだ。
そう思うだけで胸が張り裂けそうになった。
起き上がり、とりあえずキッチンへ向かった。
百合の愛用していた食器や道具だけが主をなくし、役目を終えたようにひっそりと伏せてある。
莉乃が贈ったマグカップを手に取り、微かに染みついた茶渋を見つめた。
また、熱いものがこみ上げてきて、昨夜使い果たしたはずの涙はまた流れ始めていた。
しばらく経って、涙を拭うと、キッチンを見渡した。
百合が生きていた証はあちらこちらにあり、まだ温もりを保っているようで居た堪れなかった。
不意に空腹感を覚えた。
人間とは何と情けない生き物だろう。
どんなに悲しくても、苦しくても、腹が減るとは…
少しだけ愉快な気分になり、冷蔵庫に手を伸ばした。
冷蔵庫の中は、ほとんど空だったが、俊之が買っておいてくれたらしい食品がいくつか目にとまった。
中から、卵と牛乳を取り出し、朝食の支度をした。
ひとりで朝食を摂りながら、言いようのない虚しさとさみしさに襲われた。
―あの頃のようだ…
アメリカに一人辿り着いたばかりのころのような。
昨夜、帰宅する前に俊之は、明日も来ると言ってくれた。
あまり俊之に甘えるわけにはいかない。
けれど、ほかに頼れる人などいなかった。
平日の今日は仕事が終わってから来るだろうから、夕方だろうか。
莉乃はふと壁に掛けられた時計を見た。
―10時前…これからどうしようか。
莉乃は百合の部屋に向かった。
本当は、まだ何もできる気がしない。
しかし、すべての整理をするのは莉乃以外にはいない。
俊之にこれ以上迷惑をかけるわけにはいかなかった。
母百合は18歳の時に、厳しかった父親に反抗して家を出た。
百合はそのまま銀座でホステスになった。
堅い百合の父親・勲はそんな百合を許そうとはしなかった。
それでも百合の母親・時恵は百合を心配して、時々俊之を使いによこしていたそうだ。
七つも年下の弟にとって、美しい姉に会いに銀座まで行くことは、楽しみだったと俊之は言っていただろうか。
勲の気持ちが少しずつ譲歩したとき、事件は起こった。
百合が身籠ったのだ。
それが、莉乃だった。
百合は23歳、銀座で押しも押されもせぬ人気ホステスだったころだ。
激怒した勲は、百合に父親は誰なのかを問い詰め、同時に堕胎を迫った。
奇しくも、それが百合と父親が直接向かいあった最後の場面となった。
しかし、百合は莉乃の父親を言わず、一人で莉乃を生んだのだ。
激怒した勲は、百合と完全に縁を切り、一度も莉乃を抱くことはなかった。
その後、時恵は床に伏しその3年後に亡くなるまで、百合と莉乃のことを心配し続けたという。
しかし、勲の手前表立った行動はとれなかった時恵は亡くなる直前、19歳だった俊之を呼び出して「二人を見守ってあげてほしい」と言ったという。
それ以来、俊之はずっとこの母子を陰ながら見守り続けてきた。
勲は知っていて何も言わなかった。
見捨てられない、でも許せない、そんな勲の不器用な愛情だったのかもしれない。
時恵もまた、そんな勲のことを知っていて俊之にそんなことを頼んで逝ったのかもしれない。
―私がしっかりしなくては。
久しぶりに足を踏み入れた母の部屋は、薔薇の香水の匂いがした。