第一話「帰国」
―ようこそ、日本へ―
そんな看板を莉乃は不思議な気持ちで見上げた。
3年半ぶりに踏みしめる、祖国の土。
もう、帰ることはないのではないかとさえ最近は思っていた。
今ここにいることさえ、信じがたいことだった。
日曜の空港は家路に就く観光客でごった返していた。
3年半前、ここからサンフランシスコに飛び立った日も、今日のように人でごった返していたな…と思ってすこしセンチメンタルな気分になったが、かつての出国ロビーは今いる到着ロビーとは違うと思い直した。
心の中で、少し、同じであって欲しいと願っているのかも知れない…
あの時に戻れたら…と。
―戻れたのなら、旅立っただろうか?
「ふっ…」
無駄な想像に自嘲気味に笑う。
“もしも”はいつまでたっても“もしも”だから。
―本当はもっと早く帰って来たかったの?
自身に投げかけた質問の答えは返ってはこなかった。
流れて来た荷物を確認すると、握っていたサングラスをかけた。
―必要ないかな…
一瞬思ったが、そのままにした。
空港から電車に揺られて、故郷を目指した。
田園風景を抜けて、少しずつ景色が騒がしくなってゆく。
窓の外には、代わり映えのしないビルの群れと、その袂を行き交う無数の人影。
ひとりひとりが何かを目指し、足早に去り、また訪れる。
―ああ、帰って来たんだ―
莉乃は実感していた。
無機質でどこの国も代わり映えしない空港よりも、広がる田園風景よりも、人で溢れかえった雑踏こそ莉乃の故郷だった。
莉乃の大嫌いだった、騒がしい世界。
それにすら郷愁を覚える自分に自嘲しながらも、そっと「ただいま」とつぶやいた。
3年半を過ごしたサンフランシスコは海辺の美しい霧の街だった。
莉乃もその町を気に入っていたし、一生を過ごすことになるかもしれないと思っていた。あの電話が鳴るまでは…
それでも、人が入り乱れるこの東京が莉乃の“帰る場所”なのだと、この胸の郷愁は物語っているようだった。
実家の最寄り駅を出て、少し歩いた。
騒がしい商店が立ち並ぶ駅前は、3年以上の月日を感じさせないほど変わっていなかった。
しかし、商店街を少し出ると、そこはかつての面影など微塵も感じさせないほどの変貌を遂げていた。
真新しいマンションがいくつか建ち、幼い李乃が遊んだ公園も、いくつかの古い民家も消え去っていた。
茫然として、サングラスを外し見上げてみたが、そこに故郷の面影はなかった。
「ねぇ、あれ、リリじゃない?ほら昔よく雑誌にでてたモデルの…」
向かいのオープンカフェにいた二人ずれの女の話声に、莉乃は驚いてサングラスをかけ、足早に立ち去った。
―まだ、覚えてる人いるんだ。
不思議な感覚だった。
確かに、莉乃は渡米するまで、女性向けファッション誌のモデルをしていた。
それなりに、人気もあったが、もう3年半も昔の話だ。
雑誌を手にする限られた層を除けば、決して有名人ではない。
―それでも、覚えている人がいるなんて…
嬉しい…だけど…絶対に知られてはいけない。
絶対に。
莉乃は実家へと足を速めた。