プロローグ
- ここはどこだろう?
暗い森の中をただ歩いている。
どこへ向かっているのか、それすら定かではない。
体のいたるところがズキズキと痛む。
街頭ひとつない山道で、自分の手すらボーっと浮かび上がる白っぽいものにしか見えない。
きっとその腕は泥と血にまみれているのだろう。
顔も服も、全身が…
割れるように痛む頭は、まだぼうっとしていた。
それでも、私は歩き続けた。
暗闇ももはや恐ろしくなどなかった。
私は、殺された―もう恐れるものなど何もなかった。
ただ、生き延びようとする本能だけが私を突き動かしている。
もう一度だけでいい、一目でかまわない、会いたい愛おしい顔を思い浮かべる。
暗闇の中でも、瞼に焼きついた笑顔は鮮明に浮かびあがり、凍りそうな心には温かい感情が少しだけ蘇る。
そしてまた強く願った…生きたいと。
― ああ。光が…
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ルルルル…
電話が鳴る音で目を覚ました。辺りはまだ暗い。
「ふぅ…」
― また、あの夢か…
最近はあまり見なくなった夢だった。
それでも、頬はいつものように冷たく濡れているのだった。
自然と枕もとの電子時計に目を向ける。04:26AM―日本はもう夜か。
少し嫌な予感を感じながら受話器をとった。
「Hello?」
こんな時間に電話してくるのは日本からに違いないとは思ったが、反射的に英語で電話を受けた。
相手は一度ひるんだように、一呼吸おいて尋ねた。
「…莉乃…莉乃か?」
やや緊張してはいるのだが、聞き覚えのある男の声に、莉乃は少しほっとして答えた。
「俊之叔父さん?」
電話越しに相手がホッとしたのを感じる。
「ああ…」
俊之はそれだけ言って、また押し黙ってしまった。
嫌な予感がした。
いつも優しく気さくな叔父のただならぬ雰囲気に、莉乃は戸惑った。
叔父が電話をかけてくるのは、よっぽどのことだろ。
― 母のことに違いない。
俊之が莉乃に電話をしてきたことはなく、母・百合が俊之に取り次いでくれることがたまにあるだけだった。
予感が確信に変わっていくのを感じていた。
重い時間がどれくらい続いたのか。
きっとほんのわずかの時間だったに違いない。
しかし、その重苦しい空気は、時間の感覚を狂わせ、ひどく長く感じられた。
決心した莉乃は、重い口を開いた。
「お母さんがどうかしたの?」
叔父は驚いた様子で
「えっ?…ああ…」
とだけ答えた。
「叔父さんが、こんな時間に電話をくれるなんて、お母さんによっぽどのことでもあったの?」
努めて優しい口調で問おうとしたが、その声は、自分が思っていたよりずっと冷たく響いたことに、莉乃は気付かなかった。
「姉さんが…死んだっ…」
電話越しで叔父は泣いていた。