祖父の病
楡の木には花が咲いていた。黄色い小さな花が枝先に集まっている。
「花が咲いているね。楡の木は秋に花が咲くんだったかな…」
茜が小さく首を横に曲げる。風が茜の短めの髪をフワリと動かした。
遥樹は茜を見て、眩しそうに目を細める。
「この楡の木は、秋楡なんだ」
「秋楡?」
「そう。なぜ秋楡かというと、秋に花が咲くからで、春に花が咲く楡は春楡というんだ」
「結構単純な命名だね」
「僕は花が咲く季節によって、名前をつけるなんて悪くないと思うよ」
「そうかもね」
茜は楡の木を見上げて、樹の全体を視界に収めた。
「荒川さんに依頼を受けたのは、この樹かい?」
浅木は茜の視線の先を追いながら聞いた。
「そうです」
遥樹は答えながら、楡の木に近づいていった。
楡の木に特徴的な、鱗状に剥離した樹皮の幹に両手の掌を当てる。楡の木の意識を、遥樹はゆっくりと自分の中に流し込む。
すぐに目的の記憶を楡の木の中に見つけることができた。
重い記憶だった。自分の心の全てを引きずり込んで、底へ引き落とし、さらに闇の中に…。
そして、その記憶の奥に怨念の残滓があった。
(どういうことだ?)
遥樹の背中が急に力を失ったように猫背になり、首をゆっくりと垂れて下を向いた。
茜は不安を覚えた。
「遥樹。どうしたの?」
茜は遥樹の横に立ち、膝を少しだけ曲げて、遥樹の顔を下から見た。
「遥樹!」
遥樹は茜の声に反応しない。焦点の合っていない目を、楡の木の根元に向けたまま体を動かさない。
茜がもう一度、遥樹に声をかけようとした時、ゆっくりと話し始めた。
「あの怨霊は、この家の人を守ろうとしていたんだ。だが、怨念が強すぎて荒川さんたちにまで悪い影響を与えていた。それを楡の木は長年、必死で食い止めようとしていたんだけど、怨霊は基本的には荒川さんたち家族を守ろうとしていたんだ。そして、それは成功していた。それによって、この楡の木や荒川さんたちにも悪影響を与えていたことは間違いないが、あの怨霊はこの家の人たちを守っていたんだ。それを僕が…消滅させてしまった。そのせいで、荒川さんと奥さんが…」
「こいつは、何を言っているんだ?」
浅木の目が疑いの色を帯びる。
「黙って!」
茜が浅木にきつい視線を向ける。
「大丈夫だよ。遥樹は何も悪くない。遥樹は荒川さん夫婦を救うために、頑張っただけじゃないか」
茜の声は普段の何倍も優しく、母性的な包容力に溢れていた。
しかし遥樹はその声に反応することもなく、慙愧の念に堪えないような表情を浮かべたまま下を向いている。
「じいちゃんも、僕が助けることができなかった…」
遥樹の喉が渇ききって、声がひび割れている。
「誰にも助けられなかったことだよ」
茜は遥樹の祖父が死んだ時のことを思い出していた。
三年と数ヶ月前、遥樹の祖父はすでに八十一歳になっていたが、見た目には六十代に見えるほど溌剌とした人であった。穏やかな性格で、遥樹が老人になったら、こんな人になるのだろうと茜は何度か思ったことがある。
ある日、遥樹の祖父が倒れた。
梅雨に相応しい天気が続き、樹々の緑が雨によって新鮮さを増している日々の中で、突然に起こったことであった。
店の奥で倒れているのを最初に発見したのは、当時、信用金庫に勤務していた遥樹が、残業を終えて帰ってきたときであった。
救急車をすぐに呼んで病院に搬送し、数日かけて検査が行われた。
午後五時、職場に祖父の担当医から電話があり、病院に来るようにと言われた。
心の中に湧きあがってくる不安をどうにか宥めながら、病院に着いたのは午後七時を過ぎていた。夜の病棟は、寒々とした雰囲気を感じさせた。人の気配はいたるところから伝わってくるが、どれもが押し殺したような気配であり、廊下を歩いている遥樹に緊張を強いた。
ナースステーションの隣にある小さな部屋に案内された遥樹に、医師はレントゲン写真を見せながら話し始めた。
医師から遥樹に伝えられた病名は、大腸癌であった。それもステージ4、末期であった。
「治るのですよね?」
その遥樹の問いかけに、まだ三十歳前後の医師は唾を飲み込んでから答えた。
「完治は難しいと思いますが、今は良い抗がん剤などもあります。一緒に頑張ってみましょう」
遥樹はそのまま、息をするのも忘れたように動きを止めた。
二十秒。沈黙に耐え切れなくなったのは、医師の方であった。医師は祖父の病状や治療法について説明を始めた。
祖父の癌はかなり進行していて、他の臓器への転移もあること。手術をして癌の原発巣を取り除くこともできるが、患者の年齢や体力を考えると、手術をすることが良いか分からないこと。これはその医師の上司である外科部長の意見であること。その若い医師としては、手術をして少しでも回復する可能性があるなら、手術を行いたいと考えていること。抗癌剤や放射線治療の場合でも危険を伴うことは、患者や家族にも了承しておいてもらいたいこと。
その若い医師は、遥樹にできるだけ穏やかに、そして理知的に話しをしようとしているが、どこか自信のない様子が窺える。
遥樹は自分がいつの間にか、廊下の窓際に置いてある椅子に腰掛けているのに気が付いた。医師の説明を聞いた部屋から、どうやって出てきたのか記憶がない。
周囲を見渡すと、数人の看護師や医師が歩いている。
遥樹は大きく息を吸い込んで、立ち上がった。
どちらに行こうか数秒迷って、再び腰を下ろす。
(じいちゃんに病名を告知…した方が良いのか?)
しばらく気分を落ち着けるために、額の辺りをゆっくりと揉んだ。
(そうだ。父さんたちに連絡しておかないと…今、ニューヨークは早朝か)
遥樹の両親は仕事の関係で長い間、海外で生活している。この時、両親はニューヨークに移って一年目であった。
遥樹にとって両親は、親というよりも親戚のような感覚であった。少年時代から十年以上も離れて暮らしているのだから仕方がないのだろうが、祖父という存在が親のように思われていたことが大きい。
遥樹は、病院内の公衆電話を探したが、国際電話をかけることのできるものは見つからない。一旦家に帰り、電話をすることにしたが、その前に祖父の様子を見るために病室に行った。
祖父はガーデニングの雑誌を見ていた。
遥樹はベッドの横に立って、一瞬間を置いて視線を向けた。微笑を浮かべる。
一見、自然な微笑であったが、祖父の目には違って見えた。
「どうした?元気がないな?」
祖父は老眼鏡を外して、遥樹の顔を注意深く観察している。
遥樹は自分の考えていることが、祖父に伝わってしまうのではないかと不安になり、それを打ち消すように声を出した。
「今日は遅いから家に帰るよ。明日も来るけど、何か持ってきて欲しいものはある?」
一瞬の沈黙。
雨の音が、耳の中に入り込んできて息苦しくなる。
「裕樹たちにわしの病気のことは、まだ言わなくても良いんじゃないかな。来月には十日ほど帰って来る予定になっているから、その時にわしから言うよ」
裕樹とは遥樹の父親、つまり祖父の一人息子である。
「えっ?」
「大丈夫。わしは、まだしばらくは生きられるよ」
「じいちゃん。知っているの?」
「わしの病気のことか?わしの入っている病棟や検査の内容、そして何人かの患者さんと話をした内容から、大体は分かってきたよ。それにお前の深刻そうな顔から、手術をして完治するようなものでないことも想像ができる。大腸か?そこに大きな癌があるのか?」
遥樹は頷くしかなかった。
「やはり、そうか…」
祖父の顔色が曇る。予想はしていても、それを人に確認すると、ほんの僅かに残っていた可能性が消えたような気がして滅入るのだろう。
遥樹は後悔に囚われた。
祖父は窓の外に視線を投げてから、遥樹を見た。
「明日、西瓜を買ってきてくれんか?多くは要らないが、甘いやつを頼むよ」
祖父は微笑を浮かべていた。遥樹が浮かべる微笑と似ている微笑である。
「分かった。明日は休みだから、昼前には買ってくるよ」
「頼むな。それじゃ、もう帰りなさい。疲れただろ?」
遥樹は、僅かに蒼ざめて見える祖父の顔に一瞬だけ視線を止めて、病室を出るために歩き出した。
「お休みなさい」
遥樹の声に、祖父はゆっくりと頷いた。
病院の夜間出入口を過ぎると、雨が顔に当たり始めた。激しい雨ではない、優しい雨だった。植物たちにとっての恵の雨、そんな表現が相応しい降り方である。
遥樹は、しばらく歩いてようやく思い出したように折畳傘を鞄から取り出し、頭の上に開いた。
頬を伝う一滴の液体が、雨か、それとも涙なのか、自分でも分からなかった。