強盗殺人
夏の盛りを完全に過ぎ、朝方は毛布の中に身を包み込みたくなる季節になっていた。
茜はこの一ヶ月以上、ほとんど毎日のように遥樹の店に来ていた。
何をするというのではない。平日は仕事が終ってから、半時間ほどテレビを見たり、本を読んだりして帰る。茜の父親の薬局の定休日には、朝からやってきて店番をしたり、昼寝をするなどして時間を過し、遥樹の作った夕飯を食べて帰っていく。偶には、茜が作ることもあるが…。
ただ、前とは違うのは遥樹に向ける視線の中に、心配げなものが含まれるようになったことである。
その視線に遥樹が気付いて目を向けると、茜は急に表情を強張らせて微笑を作ろうとするが、引きつったような表情になってしまう。
そんな時、遥樹は沈んだ表情に以前の微笑を一瞬浮かべるが、数分後には重い空気を自分の中に抱え込んでしまう。
遥樹のただでさえ少ない口数は益々、減っていく。
それでも、しばらくすると遥樹の様子も徐々に以前の様子に戻りつつあった。茜は遥樹に沈み込んでいる理由を聞きたいと思っていたが、それを躊躇わせる何かが遥樹の周りに存在していた。
その晩は、過ぎ去った夏が不意に戻ってきたような暑さを気温計が示していた。
「これ…あの荒川さんのことじゃないの?」
茜はパソコンの画面に視線を固定したままで、遥樹に話しかけた。茜は今日の夕方から木神園芸店に来ていた。すでに閉店して、さらに遥樹の作った夕食を食べ終わった時間であった。
「確かに名前は一緒だ。それに住所も…」
遥樹は茜が開いていたインターネットのニュースの記事に目を走らせた。
記事によると、荒川夫妻が強盗殺人の被害者になっている。
事件が起こったのは、昨日の深夜であるらしい。まだ詳細は分かっていないらしいが、複数による犯行で、庭に面した窓から侵入し、夫妻を絞殺した後に家にあった現金や貴金属類を盗んでいったということである。
「やっと楡の木にいた怨霊から解放されて、二人とも健康を取り戻してきたのに…」
少し前に荒川から手紙が届き、近況が記されていた。体調も良くなり、息子も家族を連れて頻繁に訪れるようになったと。
その幸せな日々を送っていると思われていた荒川家に、事件は起こったのである。
遥樹は、茜の背後からディスプレイを覗き込んだ。
「痛いよ」
茜の肩に無意識に置いた手に、力が入っていたようである。
「…ごめん」
遥樹の声は、ぼんやりとしたものであった。
沈黙と遥樹の発している緊張感が部屋の空気を重くしていく、その重さを破るために茜が言葉を発しようとする。
「遥樹…」
遥樹は茜の声に反応することなく、車のキーを机の引き出しから取って、玄関に向う。
「遥樹!」
茜は少し鋭い口調で、遥樹を呼び止めた。
遥樹が無言で振り返る。
「荒川さんのところに行くの?」
「うん…」
遥樹の目は不安の色を明確に映し出している。
「私も行くよ。いいでしょ?」
遥樹はこっくりと頷いた。その顔には、いつもの微笑は浮かび上がっていない。
荒川家の周囲は、ざわりとした空気が巻き付いていた。
事件からすでに二十時間程が過ぎてしまっているので、取材している報道関係者の姿は少ないが数人の姿がある。
門の前には制服姿の警官が立ち、近づいてくる人々に威圧感を与えている。
「すいません。荒川さんの家の庭の楡の木の様子を見たいのですが…」
三十歳前後のどこか緊張感の欠けたような顔の警官は、頭一つ分上にある遥樹の顔を見た。
明らかに不審なものを見る表情を浮かべ、面倒くさそうな声を上げる。
「関係者以外は、立ち入り禁止になっています。あなたは親戚の方ですか?」
「いえ…この家の樹の世話を頼まれている園芸店の者です」
警官の表情が、さらに冷たさを増す。声も丁寧さがなくなる。
「それじゃ、だめだ。さっきも言ったが、関係者以外は入れることはできない」
門の内側から、一人の男が出てきた。
四十歳を少し過ぎたと思われる顔の眉間には、深い皺がある。
「ご苦労様です」
遥樹たちを追い払おうとしていた警官が、その男に敬礼をする。
男は汗の滲んだ半袖のワイシャツの前を人差し指と親指ではさんで何度も動かし、服の中に少しでも空気を送り込もうとしている。短く刈り込んだ髪も、汗で濡れているのが分かるほど汗をかいている。少し弛んだ腹はベルトを押し広げ、その暑苦しさを倍化させている。
「どうした?関係者か?」
その男はゆっくりと首を曲げて、竹を思わせる遥樹の姿を足元から顔まで眺めた。遥樹が長身のため、男の目が睨むような様子になるのは、仕方のないことだろう。
ぞんざいな口調にも反発することなく、制服姿の警官がはっきりとした口調で答える。
「いえ。この家に雇われた庭師だということです」
男は興味のなさそうな声で、遥樹に言う。
「庭師の方がなんで事件現場を見たいのです?この家の夫婦は、もう亡くなりましたよ」
遥樹は荒川が楡の木のことを気にかけていて体調を崩していたこと、そして楡の木が元気になると荒川たちの体調も戻ったことなどを話した。
遥樹が樹の意識を感じ取れることや、楡の木に怨霊が取りついていたことなどは、もちろん話さなかった。もし話しても信じてくれるはずはないし、逆に怪しまれて余計に荒川家の庭へ入ることができなくなると思われたからである。
男は自分の名が浅木であり、事件を担当している刑事であると言った。
「ところで、木神さんがこの家に来ていたとき、何か気が付いたことはありませんか?」
浅木の言葉は丁寧だが、どこか威圧的な視線を遥樹に向けた。
遥樹は目を道路の方へ向ける。
「濃い緑色のキャップを被って、サングラスをした男の人が、あの角の辺りから荒川さんの家を観察していたようでした」
「年齢は?」
「五十歳代の後半に見えました。歩いている様子もしっかりとしていました。背中は少し曲がっていましたから、もしかしたら、もっと年上かも知れません。顔がキャップとサングラスで隠れていたので、よく分かりませんが…」
浅木は淀みなく、遥樹に質問を浴びせてくる。
「どんな印象を受けましたか?」
茜は遥樹を何か言いたげに見ているが、とりあえずは何も言わずに見ている。
「荒川さんの家の方を見る目には、何か悪意のようなものが含まれている気がしました」
「それはいつ頃ですか?」
「八月です」
「もう少し詳しく分かりませんか?」
「楡の木の治療が一段落した時だったので…十日ですね」
「その他に、何か不審に思ったことなどは、ありませんか?」
遥樹は一瞬だけ考えて答える。
「特にはありません」
浅木は手帳を取り出し、少しだけ何かを書きとめて、すぐにスーツの内ポケットに仕舞い込んだ。その前に、遥樹が乗ってきた車に視線を一瞬だけ向けたのは、車の側面に書かれている店名を確認したのだろう。
「どうもありがとうございました」
浅木は顎を小さく引くだけの会釈をして、歩き去ろうとした。
「ちょっと待ってよ」
茜が浅木を呼び止める。
「刑事さん。こっちも協力したんだから、そっちも少し協力してよ」
遥樹は少し目を見張ってから、宥めるように茜の袖を引いた。
浅木は頭に左手をもっていって掻いた。顔には苦笑が浮かんでいる。
「中に入りたいのかい?」
「話が早いね。おじさん」
浅木は怒った様子はなかったが、口元に浮かんでいる苦笑皺が深くなった。
「関係者以外はだめだと言っているだろう」
制服姿の警官が茜の背後から言った。
茜は振り返らずに、浅木に再び言う。
「少しだけでいいんだ。そうだよね、遥樹?」
急に同意を求められた遥樹は、一テンポ遅れて頷いた。
そして、茜は切り札を出した。
「それに、中に入れば何かを思い出すかも知れないよ。そうだよね、遥樹?」
今度は、すぐに遥樹は頷くことができた。
浅木の眉間に深い皺が五秒間出現し、再び苦笑が顔に張り付いた。
「まあ、いいでしょう。でも必ず何か思い出して下さいよ」
制服の警官が浅木に言う。遥樹たち二人にも聞こえる声である。
「いいんですか?部外者を入れて」
「もう部外者じゃないだろ?捜査の協力者だ」
制服の警官は納得できないような表情のまま、茜を見て遥樹にも視線を向ける。
遥樹は小さく会釈をして、微笑を浮かべている。
「どうぞ」
浅木が先に立って、荒川家に入って行った。
制服の警官は一歩横に動いて、三人を通す。その表情はどこか憮然としたものがある。




