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怨霊の消滅

 遥樹は目を見開いて、立ち上がろうとした。頭の中に激痛が生まれ、急速に広がった。

 人の姿が脳裏に、ぼんやりと浮かぶ。痛みが去った。

 体にも、精神にも力が急速に戻っている。但し、若干の違和感はある。自分の力が戻ったというより、どこからかエネルギーを注入されているような感じである。

 そして、ふと今感じているものに思い当たるものがあった。

(じいちゃん?じいちゃんなの?)

 遥樹は亡くなった祖父の発していた雰囲気、声、視線を思い出していた。

 遥樹は、祖父の声を聞いたような気がした。

 その声は、何かを訴えていた。何かを遥樹に伝えようとしていた。

 しかし声は遠退いていき、遥樹の視界に再び茜の姿が現れた。

 茜はぬかるんでいる地面に膝を着き、さらに両手も泥水に浸している。上半身はどうにか腕で支えているが、首はうな垂れている。苦しそうに息をする度に、大きく体が揺れる。

「茜、大丈夫か?」

 その声は、台風による強風に掻き消された。

 遥樹の中に、怨霊に対する怒りが湧き上がった。

 体に漲ってきた力を集中させ、楡の木に向けた。正確に言うと、楡の木の中の怨霊に向けた。

 それは、遥樹が無意識の内にやったことであった。

 怨念のエネルギーを自分の意識の中に吸い込み、その邪悪な力を周囲の植物たちの中に拡散させて送り込む。そうすると、植物たちの中に取り込まれ、邪悪なエネルギーは浄化され、清浄なエネルギーに変換されていく。

 集まった状態では邪悪さを保つことができる怨念も、散々に分解されてしまえば、それを保つことはできない。

 植物は元来、浄化する力を持った存在なのである。この怨霊に寄生された楡の木は、怨念の力が強すぎたために、その力が及ばなかっただけである。

 荒れ狂う風の中で、楡の木の葉が少しだけ本来の緑色を取り戻したように見えた。

「これは…」

 遥樹の中に、楡の木と怨霊の記憶があった。怨念のエネルギーを自分の中に取り込んだ時に、一緒に流れ込んできたものらしい。

 遥樹は後悔の念を強く感じ始めていた。

「あの怨霊を浄化すべきではなかったのかも知れない。あの怨霊は荒川さんたちにとっては大事な…。でも荒川さんたちに悪影響を…」

 この時、それは純粋な後悔の念ではなく、自分にはそれ以外の選択肢はなかったという諦めの気持ちも含まれていた。

 そして、それ以上に遥樹の精神を打ちのめす映像が意識の奥から浮かび上がってきて、遥樹はそちらに大きく意識を囚われていた。

「じいちゃん…」

 物思いに深く沈み込みそうになるのを止めたのは、微かな呻き声であった。

 遥樹は茜の横にしゃがんで、抱えようとする。

「大丈夫だよ」

 茜は少し怒ったように口を尖らせて、すっくと立ち上がったが、少しバランスを崩してふらついた。

 膝にも、両手にも泥が付いてしまっている。髪の毛も濡れて、さらに風に掻き回されたので、かなり酷い状態になっている。

 遥樹は茜の二の腕に自分の手を添える。

 茜は一瞬、腕を強張らせたが、すぐに力を抜いて遥樹の支えに任せた。

 遥樹は、荒川の家の方に目を向けた。

 庭に面した窓越しに、荒川のやつれた顔が見える。それでも先程の紙のような顔色に比べれば、生気が戻ったように見える。その目には、うっすらと涙が浮かんでいた。

 荒川自身、なぜ涙が浮かんでいるのか分からない。茜に抱えられるように家の中に入り、座椅子にぐったりと身を預けていたら急に体が軽くなった。

 隣の部屋に寝ている妻の顔を開いている襖の向こうに見ると、忙しなかった寝息が落ち着いている。

 それから立ち上がって、庭を見渡したのである。

 荒れていた風が、急速に弱まり始めた。まだ風は強いが、樹々が痛めつけられるほどではない。

 荒川は、ゆっくりとガラス戸を開けた。

 風が部屋の中に巻き込むように入ってくる。

「さあ、上がって下さい。今、タオルを持ってきますから」

 荒川は、雨に濡れそぼった二人を見てそう言った。

「いえ…」

 遥樹は断ろうとしたが、隣の茜のことが気になって、荒川の申出をありがたく受けることにした。暑い季節であるが、雨に濡れている上に精神的にもダメージを受けているため、少し寒そうに背を幾分丸めている。

 遥樹は車から着替えを取ってきて、茜に着替えさせた。仕事先で服が汚れることはよくあるので、車にはいつも簡単な着替えを積み込んでいる。

 背の高い茜にも遥樹の服は大きすぎるようで、ズボンもシャツも裾や袖を折っている。

「あの樹は大丈夫でしょうか?」

 荒川は庭に視線を向けた。上空の雲が薄くなったのか、明るくなってきている。

「大丈夫だと思います。でも、今までのものとは少し違った樹になると思います」

 遥樹は楡の木に視線を向けながらそう言った。

 荒川は不安げな声を上げる。

「それはどういうことですか?」

 縁側に柔らかな陽射しが差し込んできた。夏の勢いは強く、すぐにじわりと背中に汗が滲んできた。

 遥樹はその汗を心地良く感じながら、穏やかな表情で話し始めた。

「あの樹は、この家に存在する怨霊を自分の体の中に取り込んで、こんな姿になったのです。でも、この樹の寿命が迫っていました。すでに自分の中に怨霊を閉じ込めておけるだけの力がなくなっていました。だから怨念が溢れ出てきて、この家の人に悪い影響を与えていたのです。しかも台風で傷ついて、もう死の寸前でした」

 風が再び、勢いを増してきた。台風の吹き戻しの風であろう。

 それは暴力的な力を持ってはいなかった。まるで台風が残していった傷跡を洗い流すような、強いけれども、優しい風である。

 荒川夫人がいつの間にか上半身を布団から起こして、こちらを見ていた。

 襖は掌ほどの幅しか開いていなかったが、ちょうど遥樹から顔が見えた。

「あの子は…あの子の魂は成仏できたのでしょうか?」

 荒川が襖をさらに広げて、妻のいる部屋に入って行った。

 夫人は以前に会ったときよりも痩せていたが、今は気分が良さそうに見えた。

(この人は、あの怨霊が自分の子供の魂が変化したものであることを知っていたのか)

 遥樹は荒川夫人の視線を正面から受けて答える。

「はい。魂は怨念から解放されました。そして楡の木も…」

 荒川夫人は微笑を浮かべた。

「そうですか」

「でも…」

 遥樹は小さくそう言って、そのまま口を閉じた。

(あの怨霊が消えてしまって、あなたは本当に良かったのですか?)

 そんな想いが湧き上がってきたが、言葉には出さなかった。

「少し、あの楡の木の治療をしてから帰ります」

 遥樹が立ち上がると、茜も立ち上がった。その顔には赤みが戻っている。

 遥樹は、半時間ほどで手早く、台風で傷ついた楡の木の応急処置を済ませると、荒川に挨拶をして辞した。

 茜に、帰りの車の中で荒川家の楡の木について話し始めた。

「茜、あの樹に宿っていた怨霊は必要な存在だったのかも知れない」

 茜はうとうとしていた。車に乗り込んだ途端に、疲れが押し寄せてきて目を開けていることができなかったのである。

「どうして?あの家の人に悪さをしていたんだろ?」

 茜は薄く目を開いていたが、視点は定まっていない。すぐにでも頭を垂れて眠ってしまいそうになっている。

「そうだね。確かに、あの怨霊は荒川さんたちに悪い影響を及ぼしていた」

 遥樹は自分の思いの中に沈みこむように、言葉を漂わせ始めた。

「あの樹は、あの老夫婦の子供の剛司が生まれた記念に植えた樹だったんだよ。そして、その根元でその子が眠っている樹でもあるんだ」

 茜は遥樹の方へ視線を向けた。

「どういうこと?」

 遥樹の横顔は幾分、青ざめて見えた。何か精神的に疲れを感じているようである。

「剛司君…その頃は子供だったけど、僕たちよりもひとまわり以上も年上だけどね…は、自分の家の使用人が金を盗むところを見てしまったんだ。それで殺され、庭に埋められた。その使用人は、家に強盗が入って金を盗み、剛司君を連れ去ったと供述した」

「その使用人は警察に捕まったの?」

 茜の眠気は霧散していた。それは遥樹の話しに引き込まれたというよりは、遥樹の様子が気になってきたからであった。遥樹の声はどこか沈みこむような調子を持ち、それは精神状態を表していた。

「それから十年間も使用人として働いていたんだ。一方、剛司君の魂はその使用人に対する怨念のために浄化されずに、自分が欠けた家族の暮らす家を長い間、見ることになった。その間に怨念は強くなり、その矛先はいつの間にかその家に暮らす者全てに向けられた。剛司君の魂が強い怨念のために、怨霊と化してしまったからだけどね…。それを食い止めたのがあの楡の木だったんだ。大きくなる怨霊を封じ込めるために自らの姿が歪になるほど急激に成長して、家とそこに住む人々を守ったんだよ」

「そんなに剛司君の恨みは大きかったんだね」

 遥樹は小さく首を振った。

「もし、その使用人がすぐに荒川家から姿を消せば、剛司君の魂は怨霊と化すことはなかったと思うよ。剛司君は、その使用人が再び荒川家の人に対して悪事を働くことがあると思っていたのだろう。そして、それが心配でならなかったんだと思うよ」

 しばらくの沈黙の後、遥樹が小さな声で呟く。

「間違っていたのかな…」

 茜はすぐに否定する。

「そんなことはないよ。怨霊は荒川さんたちに悪さをしていたんだ。それなら仕方がないじゃないか!」

 遥樹は茜に一瞬、視線を向けて、すぐに前方の車窓に戻した。

「そうだね…」

 だが、遥樹の言葉は別の意味も持っていた。それは茜には、まだ語れそうもないないことだった。

(じいちゃんが僕の中にいる。あれは記憶だけでなく、意識そのもの…)

 台風が去った後、急速に回復した天候の中での陽射しは、今までのものよりさらに強烈で力強いものに感じられた。遥樹は眩しさに目を細める。地面からの熱気でゆらりと歪む風景の中を、どこか不安定な精神を抱えて、車を走らせていた。

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