樹の悲鳴
台風が上陸した。この地方に上陸したものとしては、過去二十年で最大である。海の上を通って遥樹たちの住む街に近づいてきたため、海水を含んだ雨が降り、風で痛んでいる樹々を、さらに痛めつけた。
雨は上から降るのではなく、真横から叩きつけるようである。
かなりの歳月を経た遥樹の店でもある家も、全体から軋む音が上がっている。
夜が明けても、まだ辺りは薄暗い。台風は上陸すると速度を増すと予想されていたが、それに反して速度は上がらず。この地方を痛めつけ続けている。
「大丈夫かな…・?」
遥樹は妙に楡の木が気になっていた。
電話のベルが、風切り音の合間に聞こえてきた。
「はい、木神園芸店です」
電話の主は荒川だった。
荒川によると、少し前に台風の風のせいで、庭の楡の木が大きく裂けてしまったということであった。それを言う荒川の声に力がない。息も若干苦しそうであった。
受話器を置くと、茜が店に入ってきた。傘にしがみつくように傘を差していたが、シャツもジーパンもかなり濡れている。
茜が店に入ってくる時に、風も店内に舞い込み。鉢植えの葉や花が大きく揺れた。
「どうしたの?」
遥樹は、タオルを探しながら聞いた。
「あんたの店が、台風に吹き飛ばされてないかと心配でね!」
茜が憎まれ口をたたく。
「どうにか今のところ大丈夫だよ」
「どうしたの?」
茜は遥樹の沈んだ表情を見て、声の調子を和らげる。
「今からお客さんのところに行くことになっている。樹が台風でかなりのダメージを受けてしまったようなんだよ」
「どこの樹?」
「前に話した荒川さんの楡の木だよ」
「そう…」
「何か悪い予感がするんだ」
遥樹は、小さく体を震わせた。
茜は遥樹の目を覗き込むように見るが、遥樹は視線を下げたままである。
「私も行くよ」
茜は宣言した。
「大丈夫だよ。それに茜は仕事があるだろ?」
茜は昨年までOLをしていたが、今は実家の薬局を手伝っている。茜の父親が三十年前に遥樹の園芸店の二軒横で始めた店である。小さな店であるが、店主の人柄の良さと知識の豊富さで、そこそこに繁盛している店である。茜が言うには、最近は看板娘である自分のおかげで、潰れずに済んでいるらしい。
「大丈夫。パパには、遥樹の店を手伝うと言っておくよ」
茜の父は、なぜか昔から遥樹に対して優しい。同情的であると言っても良い。中学生の頃から両親から離れて暮らしている遥樹を、可哀想だと思っているのだろう。
「いいよ。茜のお父さんに悪いよ」
遥樹はそう言いながら、道具類をまとめて、出かける準備をしている。
「遠慮するなって」
茜は遥樹が道具を入れた袋を、奪い取るように持った。
遥樹と茜は、風と雨が我が物顔で支配している空間に身を投げ入れて、車まで走る。
遥樹たちが荒川家にかけつけた時、雨の勢いが少し弱まっていた。風は未だに強いままである。
二人は膝まである雨合羽を被って、車の中から飛び出していく。風によって加速された雨滴が、雨合羽を激しく叩く。フードを手で押さえておかないと、外れてしまいそうになる。
「頭が痛い。それに胃の辺りが…気持ち悪い」
茜は吐気を堪えるように口に握った手の甲を当て、眉間に皺を寄せている。門まで後一歩というところから、それ以上庭に入ってこようとしない。
遥樹は、車を降りる前から、すでに異常な雰囲気を全身で感じ取っていた。樹々が苦悶の声を上げている。台風による強烈な潮風によってもダメージを受けているが、今はそれ以上に庭の中心にある楡の木から流れ出てくる怨念の方が問題であった。
怨霊は攻撃的な感情を剥き出しにして、この家に近づいてくるもの、そしてこの家にいるものを人や植物などの区別なしに攻撃している。楡の木の中にある怨霊は暴走している。
「ここで待っていて」
そう言って遥樹が茜の前に出て歩き始めると、茜はすぐ後をついてきた。茜は歯をしっかりと噛み締めている。
二人が荒川家の庭に一歩入ると、荒川が遥樹のもとにすぐに歩み寄ってきた。風が髪の毛を掻き乱し、雨が服をかなり濡らしている。しばらく前から荒川は風雨に曝されていたようである。
荒川の顔色は紙のように白く、生気が感じられない。遥樹に向けられた充血した瞳が、怯えを含んでいる。
「あの樹が大変なんじゃ」
荒川は怯えを感じながらも、楡の木のことを案じているようである。
その指し示す先の楡の木は、無残な姿を見せている。ただでさえ、歪な姿をした樹である。それがさらに、大きな傷を負っている。地面から最初の位置にある一番大きな枝と幹の間に亀裂が奔り、それが幹の半ばまで達している。
その枝の先は地面に達し、台風対策のために蜘蛛の糸のように張られていたロープは、乱雑に枝に巻きついているだけで役に立っていない。風の力だけではない何かの力が加わったとしか思えない有様である。
「茜、荒川さんを家の中に連れて入っていて」
茜は小さく頷いて、荒川の肩を抱えるように家の方へ連れて行く。
遥樹はそれを少しの間だけ見てから、真っ直ぐに楡の巨木に向って歩いていく。
楡の木まで、あと数歩のところで立ち止まる。四方から襲ってくる巨大な動物が大音声で呻いているような音が、遥樹を苛んでいる。
遥樹は両手の掌で、左右の耳を塞いだ。それで音が小さくなるわけではなかった。物理的な音ではないのである。しかし、掌で耳を押さえておかないと、鼓膜が裂けるのではないかと思えるような音であった。
この音が自分にだけしか聞こえていないのは、分かっていた。その証拠に、近所の人が煩いとも言ってこないし、人が集まってくる様子もない。
「なぜ、そんなに暴れる…」
遥樹は充血してきた目を前に向けて、残りの数歩を進む。
右腕を伸ばす。
楡の木の樹皮に右手の掌が触れる一瞬前に、恐怖が走り抜けた。
残り一センチ。
遥樹は、なぜ自分が楡の木に触れようとしているのか分からなくなった。
(この樹に触れて、そして声を聞いてどうしようというのか?僕に何ができる?この樹を癒すことができるのか?)
突風が吹いた。
遥樹の背中を空気の塊が押す。ザラリとした感触が、右手の掌全体に広がる。
脳の中で何か尖ったものが、動き回っているような痛みが突然に発生した。
「ぐあっ」
喉の奥から、呻き声が押し上がってきた。
「遥樹!どうしたの?」
茜の足音が背後で大きくなってくる。荒川を玄関に入れて、すぐに遥樹の方に戻ってきたのである。
遥樹には頭の中で大音声が鳴っているのに、茜の声が聞こえるという不思議さを認識している余裕はない。
茜の手が肩の上に乗せられたのを、感じた。心の中に吹き荒れていた風が、僅かに弱まった。そして、自分が地面に膝をついて、楡の木に寄りかかっていることに気付いた。
振り返った遥樹は、日に焼けた顔が青ざめて見えるほど、血の気が引いている。
「茜、離れていて」
茜の指先から微かな震えが伝わってきていた。それと同時に遥樹を心配している気持ちも。
「大丈夫?顔色が悪いよ」
遥樹は楡の樹から一歩だけ離れてから、茜に微笑を向けた。顔の筋肉が強張っているのが自覚できる。
「大丈夫だから。離れていて」
茜は遥樹の真剣な声に押されるように、後ろに下がった。
遥樹は目を閉じて、意識を周囲に拡散させる。
(手伝ってくれるかい?)
その問いかけは、周囲の樹々や草花たちに向けられている。
遥樹の中に、温かい力が流れ込んでくる。大きく息を吸い込んだ。
遥樹は自分の中に充満してくる力を感じながら、もう一度息を吸い込んだ。
しかし…。
(だめか…やはり皆、かなり弱っているな)
台風が植物たちを傷つけ、今も激しい風雨が続いている。
遥樹は、空を見上げた。
空一面に雲が存在している。その灰色の濃淡によって織り成されている模様が、刻一刻と姿を変えていく。
遥樹は視線を戻し、一歩前に進んだ。
不安が体の自由を一瞬奪う。
その呪縛を剥ぎ取って、楡の幹に掌を押し当てる。
ギシッ。
無意識に、奥歯を強烈に噛み締めていた。
何か黒くて、熱いものが自分の意識の殻を叩いている。
遥樹は耐えた。耐えながら、楡の木に周囲の植物たちから分けてもらった力を注ぎこんだ。楡の木が力を取り戻せば、怨霊は再び封印されるだろう。そして長い年月を経て、楡の木の中に取り込まれ、完全に浄化される。
樹は様々なものを浄化する。汚れた空気を、汚れた水を、人の心を、そして怨念を。
(だめなのか?)
遥樹の中に集めた全ての力を注入しても、楡の木は力を取り戻さなかった。だが楡の木が力を取り戻しそうな感触は、ぼんやりと伝わってきた。
(もう少しだけ力をあげるから、頑張って)
遥樹は自分自身の生命エネルギーを楡の木に注入し始めた。周囲の植物たちの力を集めて、それを注入するのにもかなりの消耗を強いられている。そこから、さらに搾り出すように力を注入するのである。
楡の木が少しずつ活性化してきた。
(いいぞ。そのまま頑張ってくれ)
遥樹は、さらにエネルギーを樹に与える。
そして遥樹は限界の近くまできていた。単に樹を回復させるために力を注ぎこむなら、自分の体力と精神力の限界近くまで使ってしまっても問題はない。健康なら、一晩寝れば、少し疲れが残っている程度まで回復するだろう。
しかし今は…。
精神力が急速に弱くなり、自分の意識を内側から支えていた何か強固なものが軟化し始めた。
楡の木の僅かに取り戻していた生命力が、再び深い疲労の中に埋没するように力を失っていく。
(頑張ってくれ)
遥樹は、残り僅かになった自分のエネルギーを与えた。そして、そのまま楡の木の様子を感じようと、その場を動かずにいた。
楡の木は巨木が持つ、ゆったりとしたリズムの中で、自らの中に抱いている怨霊を包み、封じ込めようとしていた。
攻撃するのではない。自らの中に要素として取り込んでいくのである。
風音が急速に大きさを増した。
バキッという乾いた音が、掌からも耳からも伝わってきた。
遥樹が視線を上に向ける前に、茜の声が鋭く響いてきた。
「危ない!」
遥樹は楡の木に抱きつくような格好で、落下物をかわした。
遥樹の足元に落ちてきたのは、楡の木の枝である。遥樹の腿ほどの太さがあるだろう。それが裂けた先端を下にして地面に突き刺さっている。
楡の木から黒い靄のようなものが、滲み出てきた。そして、それが人の手を形作っていくのが遥樹には見えた。
それから離れようと足に力を込めたが、膝が崩れた。自覚している以上に、体力も、精神力も消耗している。
黒い靄がさらに楡の木から滲み出てきて、遥樹の体を覆う。
「遥樹!」
茜は遥樹の苦しげな様子にすぐにでも走り寄りたいのだが、楡の木の周辺の空気が濁っているように見えるのと、おぞましいものが漂っている感覚が押し留めていた。
「来るな!」
遥樹の声はしゃがれていたが、力強く強圧的な響きを持っていた。
「えっ?」
遥樹が茜にこんな声を向けたことは、今まで一度もない。遥樹が茜にかける言葉は、いつも茜の心に溶け込んでいくような雰囲気をもっていた。
しかし、茜は声の中の強圧的な部分に反発を覚えなかった。その声の中に必死なものが含まれていた。
遥樹は疲れた顔の中に、微笑を浮かべて茜を見た。
そして次の瞬間、意識の殻が破れた。黒く熱く、荒々しいものが遥樹の意識を蹂躙していく。
さらに、それは広がり、荒川家の庭を支配していく。
「茜!」
遥樹の混濁していく視界の中心で、茜が倒れた。
怨念が茜の精神に一瞬にしてダメージを与えたのである。




