台風
過ぎ去ろうとしていた夏が、この日は戻ってきていた。
肌を焼く陽射しの中で、遥樹は植木鉢の根元に肥料を一つずつ丁寧に埋めている。熱帯が原産の観葉植物たちは、夏の光の下で生き生きとした姿を見せている。
風が少し強くなってきたようである。
「遥樹。この暑いのに頑張っているな!」
茜が垣根の向うから、こちらに手を上げている。その手にはコンビニエンスストアの袋が提げられている。
遥樹は軍手を脱ぎ、タオルで顔の汗を拭うと、店へ足を向けた。
茜は冷蔵庫から、麦茶を取り出しているところだった。額には、うっすらと汗が滲んでいる。
「アイスを買ってきたよ。食べるだろ?」
アイスクリームを食べ始めると、茜は外を見ながら言う。
「風が出てきたね。やっぱり台風はこっちに来るんだな」
「そうなの?」
「知らないの?かなり大きな台風が、明日にはこの辺りまで来るらしいぞ」
遥樹は店のレジの横に置いてあるパソコンの前に座り、ネットに接続した。天気のサイトに入り、台風の様子を確認する。
「台風の中心がこの辺りに来るのは、明日の朝だね。これだけ大きいと今日の夜には、かなりの風が吹いているね」
茜もパソコンのモニターを覗き込んでいる。
「また、でかくなっている。今日の朝よりも中心の気圧が下がっているし、雲の渦の大きさも増しているような気がする」
陽射しが、急に弱まった。
窓に近づいて空を見上げると、灰色の雲の塊が太陽を覆っている。そして、すぐに雲から太陽が抜け出てきた。雲の流れが速い。
「茜、少し手伝ってくれる?」
台風に対する備えをしておかなければならない。ビニールハウスを補強し、外の鉢植えを店の中に運び込み、立てている看板なども撤去する必要がある。
一人でもできるが、二人でやれば夕方までに十分終る。
「いいけど。アルバイト代は出るんだろうね?」
遥樹は微笑する。
「アイスクリームのお礼も兼ねて、今日の夕食をご馳走するよ」
「何?」
「うなぎの蒲焼でどう?」
茜は一瞬明るい顔をして、すぐに疑いの目を遥樹に向ける。
「どこの?」
「駅前のスーパー…でも一番高いやつにするから。それにそうめんもサービス」
茜は、小さな溜息を吐いて苦笑する。
「それで、手を打つか」
二人は残っていたアイスクリームを口の中に放り込んで、夏の熱気が充満する中、働き始めた。
一段落ついて、汗が滲んだシャツを着替えているとき、遥樹の意識の表層に楡の木が浮かんだ。
遥樹は道具箱とロープなどが入った袋を持ち、車の荷台に積んだ。車のキーを店に取りに戻り、扇風機の前で涼んでいる茜に言う。
「ごめん。蒲焼は明日にして」
茜は驚いた表情から、瞬時に怒った顔になる。
「もうママには夕飯いらないと言ったのに、どうするんだよ!」
「ごめん。まだ台風に備える必要のある樹があるんだ。店番も、お願い」
遥樹は荒川の家に急ぎ、まだ辺りが明るい時に到着できた。
風に吹かれて微かに悲鳴を上げている楡の木の声が、遥樹の意識に流れ込んできた。
遥樹は荒川への挨拶もそこそこに、ロープで楡の木の枝のいくつかを地面に固定した。風の力を少しでも逃がすためである。作業が終ったのは、陽が完全に沈み、黄昏時が終った頃であった。
(おかしいな…)
かなり楡の木の負担は軽減されたはずなのに、楡の木から聞こえてくる悲鳴は小さくならない。
「こうしてもらえば、この樹も大丈夫でしょう」
荒川はにこやかな顔で、楡の木を見上げている遥樹に声をかけた。
(こうしておけば大丈夫だろう。それに、これ以上のことは僕にはできないし…)
遥樹は不安を消すように、心の中で呟いた。
今までの経験から考えて、これだけの補強をしておけば十分に台風に耐えることができるはずである。例え、かなり大きな台風であっても…。
遥樹が店に帰った時には、閉店の時間も過ぎ、すでに茜はいなかった。戸締りをして、鍵はいつものように倉庫の隅に隠してあった。
店に帰った遥樹は、レジスターの上にテープで止められたメモ書きを見つけた。
(蒲焼に、ケーキ付だぞ!)
その言葉の下に、怒った顔のイラストが描かれている。
「ケーキが利子か…でも蒲焼にケーキは合いそうもないけどね」
遥樹は苦笑をして、そのメモをレジが載っている机の引き出しの中に入れた。
昼間の汗を完全に流し去るために湯船にゆったりと浸かっていると、風が起こす葉音が侵入してきて、浴室内をぎっしりと満たした。