霊能者の誤算
太陽は中天にあり、地上の全てを熱で溶かすような勢いで陽を注いでいる。
青が深い空には、重量感のある入道雲が自らの肉体を誇示するように浮かんでいる。
その空の下に、似つかわしくない姿が佇んでいる。
四十歳前後と思われる小太りの男が、胸の前で複雑な形に指を組み合わせ、口の中で何かもごもごと言っている。
直垂を着て、烏帽子に似たものを被り、神主のような風体をしているが、どこか違っている。
荒川の妻が二日前、急に体調が悪くなった。昨日、医者に連れて行っても原因が分からない。
そこで、知人に紹介してもらった霊能者を自宅に呼んだ。
「呪いの元凶は、この樹です。すぐに切り倒してしまいなさい」
霊能者は、きっぱりとした口調で荒川に言った。
「やはり…」
そう言うと荒川は家の裏手に回って行き、鋸を持って戻ってきた。
霊能者は楡の巨木を睨むようにして見ながら、何か呪文を唱えている。
「あなた、止めて下さい。それは剛司の…」
妻が、縁側から声をかけた。
「横になっていなさい」
荒川は強い口調でそう言って、鋸を腰の高さの幹に当て一気に挽いた。
鋸はその刃が見えなくなるほど、深く幹に食い込んでいた。
荒川は酷い疲れを覚えて、手を止めた。
その一瞬後に、霊能者は後悔を覚えた。自分の手に余るものに手を出してしまったことに気が付いた。
切り込まれた樹から邪悪な存在が飛び出し、家を覆った。
老人は再び鋸を動かすこともできずに、痙攣を起こしながら倒れた。
霊能者は何か強烈な怨霊の力を感じて、その場から走り去った。心の大半が恐怖に支配され、荒川を助けることなど考えもできなかった。
遥樹が、荒川家の前で車のエンジンを止めたのは、空がかなり赤みを帯びてきた頃であった。
運転席のドアを開けた瞬間に、夏の熱気が押し寄せてくる。それと同時に、気管を塞ぐような感じを与える空気が流れ込んできた。
荒川家の樹々たちが苦悶の声を小さく、しかし圧力を持って発している。
遥樹は脇の下にじっとりと汗が出てくるのを頭の端に意識しながら、ゆっくりと庭を横切った。
荒川が鋸でつけた傷は、遥樹のいる面とは逆にあるため見えなかったが、楡の木が急激に生気を失っていくのを感じ取ることができた。
(何があったのか…)
「こんにちは、木神園芸店です」
玄関の引き戸が風に押されて、ガタガタと小さな音を立てている。戸を軽く叩くと、思っていた以上の音が出た。
屋内から反応はない。
再度戸を叩こうとして、少し開いているのに気が付いた。横に引くと、滑らかに動く。
「こんにちは…」
家の中には、静寂が満ちている。
遥樹は戸を閉めようと手に力を入れる。戸が僅かに動いた時、人の気配が伝わってきた。
足音が聞こえ、襖が開けられる音がした。
荒川の顔は、異様に白かった。乱雑に跳ねている髪が、すさんだ感じを与えている。
「あの樹を切り倒してくれませんか?」
荒川の声は、水気を失っていた。聞いている者の気分を沈ませるような声になっていた。
「それは、どういうことですか?少し前に治療をして」
言い終わる前に、荒川は体のバランスを失った。柱に体重を預けて、どうにか体を保つ。
荒川の目は、焦点を定めることができない。ぐるりと世界が回り、物の形が歪になる。
さらに荒川の体が傾き、床に倒れそうになった時、遥樹はすでに玄関から廊下に上がっていた。
荒川の体を支える。
意識を失った人の体は重い。遥樹は、荒川の体を引き寄せて抱えて、家の奥に入っていく。
部屋の中を見ると、荒川夫人が布団に寝ている。穏やかに寝ているようには見えない。浅く、早い息が続いている。
その布団の横には、座布団が置かれている。先程まで荒川が座っていたのだろう。
遥樹は、荒川を部屋の中に入れて寝かせ、座布団を荒川の頭の下に入れる。夏であるので、寒くはないと思われたが、荒川の体が妙に冷えているのが気になった。
荒川が体を起こした。
「大丈夫ですか?」
遥樹の問いかけに、荒川は頷いた。声も出そうとしていたが、音にはならない。小さな咳を二、三度してから遥樹を見た。
「樹を伐ってほしいのです」
縁側の向うにある楡の巨木に視線を向けながら言った。その視線には、怖れと哀しみと苦悶が混在しているように感じられた。
荒川はゆっくりと、霊能者を呼んだこと、そして霊能者が言ったことを話し始めた。
霊能者は、この家の庭に入った瞬間から、表情を険しくして楡の巨木を見つめていた。そして数分間、口の中で何か呪文のようなものを唱えると、樹に近づいていき数珠を持った手で樹に触れた。
そして荒川に、樹の中に怨霊が棲み、荒川の妻に悪影響を与えていると告げた。怨霊を退治するには、まず怨霊を守っているその樹を切り倒す。次に、霊能者である自分が出てきた怨霊を浄化する必要があるとも言った。
だから荒川は、楡の巨木を切ろうとした。そして、遥樹に伐ってくれと言っている。
遥樹は荒川の言葉に従うのを躊躇った。
確かに怨霊は、この老夫婦に災いをもたらしている。だが、誰かがあの樹を伐ってはならないという心の中で叫んでいるような気がしている。
遥樹が黙っていると、荒川は話し始めた。
「一緒に暮らしていた孫が、二年前に亡くなりました。三歳になったばかりの男の子でした。その子も今の妻と同じような原因不明の病気になって。それからしばらくして、長男夫婦は一歳だった孫娘を連れて、この家を出て行きました。その時は息子に対して怒りを覚えましたが、あの子はこのことを感じ取っていたのかも知れません」
喉に痰が絡まったのか、少し苦しげな咳をしてから、再び話し始めた。
「妻はあの樹に執着を持っています。それは、私たち夫婦の間に生まれた次男の誕生記念に植えた樹だからです。でも、それがこの家の災いの原因であるなら、伐らなければなりません」
荒川は遥樹に話すことによって、何かに許しを請うているような感じさえする。
遥樹は必死な様子の荒川を見ながら、言葉を探していた。あの樹を伐りたくなかった。いや、伐ってはならないとさえ感じている。
突然、庭から男の声が聞こえてきた。かなりの大音声である。
楡の木の根元に、異様な風体の男が立っていた。頭から白い布を被り、左手には何枚ものお札を持ち、右手には手斧を握り締めている。
カンッと乾いた音が響いた。手斧が楡の木の幹に食い込んだのである。
「戻ってきてくれたのか…」
荒川のその言葉で、遥樹は庭にいる男が、荒川の呼んできた霊能者であることが分かった。
その男は手斧を一振りする毎に、お札をその樹の幹に貼り付けていく。
三度目に手斧が振り下ろされた時、黒々とした煙が楡の木の切口から染み出してきた。その煙は深い黒であるのに向こう側の景色ははっきりと見えた。そして、霊能者に自らの身を寄せるように纏わりついていく。
木の枝がざわりと波打ち、葉擦れの音が庭を支配する。
霊能者は体を強張らせたように動きを止め、斧から震えが伝播していき、全身が震え出す。
遥樹は縁側を抜け、庭へと降りた。いつものゆったりとした動きの遥樹とは、別人のような身のこなしである。
霊能者は、地面にゆっくり倒れた。
遥樹は、それへ一瞥だけ与え、楡の幹に手を当てた。
先程の黒い煙が足に絡み、昇ってくる。全身の皮膚に針を浅く入れられたような痛みが奔る。それに堪えて、手を幹に当て続ける。
自分でも、なぜそんなことをするのか分からない。でも他にするべきことを思いつかなかった。こうしなければならないという漠然としたものが意識を埋めていた。
風が吹いた。
その風は拡散せずに、逆に遥樹の背中に集まり、吸い込まれた。
体の中に緑の光が充満したと感じられた。様々な植物たち、特に荒川家の庭に生きている植物たちの生命の一部が、体の隅々に広がった。大きなエネルギーになっている。自分の体が活性化されている。先程まで感じていた痛みも消えている。
遥樹は戸惑っていた。
体の中にあるエネルギーを、どのように扱えば良いのか分からない。このエネルギーは、行き場を求めている。それなのに、自分は何をするべきか、何ができるのか分からない。
混乱するほどに、体の中のエネルギーが減っていく。再び、全身に刺すような痛みが広がってくる。
その時、温かな空気が頭を包んだ。大きな手で頭を包まれたような感覚であった。
(じいちゃん?)
大きな手の持ち主…祖父が側にいるかのような錯覚を覚えた。目を静かに閉じると、祖父の姿が浮かんだ。
そして、遥樹は意識に投影されたイメージのままに体を動かす。楡の巨木に両手の掌を当てた。
体の中の緑の光が掌に集まり、樹に流れ込んでいく。
次の瞬間には、祖父のイメージは消えていた。
「ふー」
遥樹は大きく息を吐き出した。刺すような痛みは消えていた。そして、体に充満していたエネルギーも消えていた。
ふわりと涼しい風が吹いた。
陽が山々の陰に隠れている。空はまだ少し明るいが、すぐに紺色、そしてさらに黒さを増すだろう。
霊能者はゲホリと咳を一つして体を起こした。ぼんやりとした視線を遥樹に投げかけたまま、動きを止める。
楡の木に視線を戻した。その視線の中に、怯えが浮かんだ。
「やったのか?」
誰に言ったというわけではないらしい。
「やったんだな」
喜悦の表情が浮かぶ。すっくと立ち上がって、荒川の元に歩いていく。
荒川は縁側に出てきていた。
「もう大丈夫です。私がしっかりとお払いをしておきました。安心して下さい。また困ったことがあれば、いつでも相談しに来なさい」
自慢げな笑みを浮かべ、唾を飛ばしながら言った。
霊能者はそれだけ言うと、荒川の家の庭を横切り出て行った。その背中を見ると、びっしりと汗が衣の表面まで浮き出て、小太りの肉体に張り付いている。足元が幾分ふらついている。
少し表情の明るくなった荒川に見送られて、遥樹が家路についたのは、それから二十分後であった。
空は完全に夜の姿を見せていた。風の中に冷気が僅かに混ざり始めているが、まだじわりと流れ出る汗を止めることはできない。
遥樹は車に乗り込む前、不安が広がるのを感じた。荒川家の方を眺めると楡の木が、星空を背景にして影を作っていた。その影から暗いものが立ち上る…。
目を凝らすと、その光景は消えた。
(気のせいか…)
車のキーを、セルの位置に回す。セルの音だけが響き、エンジンがかからない。
三度目、ようやくエンジンが自ら回転を始めた。
遥樹は翌日から、荒川家に通い、楡の巨木の治療を続けた。
一月後、遥樹の治療が功を奏し、樹は再び生命を取り戻した。葉は濃い緑色を湛え、幹の傷は治療跡が痛々しいが、雑菌などの侵入を防ぐことができ、回復に向っている。
季節は夏の盛りを過ぎ、日々風の中に涼しさが混ざり込み始めた。
遥樹は楡の巨木を眺め上げた。
生命力を取り戻した楡の巨木の歪な姿は変わらないが、どこか伸びやかな雰囲気を持ち始めていた。
(もう大丈夫かな…)
遥樹は、道具を片付けて車に乗り込む。荒川家の方へ視線を向けている男に気が付いた。
バックミラーに映るその男は五十代の後半に見え、濃い緑色のキャップを被り、サングラスをしている。陽射しが強い季節であるので、不自然ということはないが、どこか様子に違和感がある。それに道路を挟んで荒川家に投げかけている視線には、何か悪意があるような感じがした。
遥樹がミラー越しに観察していると、その男は遥樹の乗っている車の方に一瞥を送った。そしてすぐに体の向きを変えて、ゆっくりと歩き去った。
遥樹は何か嫌なものを感じたが、一度息を吐いてからエンジンをスタートさせて家路についた。