そして
茜がパソコンの前に座っている。
画面にはギリシャ神話のホームページが開かれていて、そこに書かれていることを読み始めた。
「マルスとはローマ神話で、最も崇拝される神の一人である。しかし、一方でギリシャ神話の闘神・軍神アレスと同一視され、アレスは残虐で戦争好きな神とされている。アレスは戦いにおいて敗戦することも多く、密通をするなど行いも悪いため、崇拝されているとは言い難い。主神ゼウスと正室ヘラの息子」
茜は画面を何か探すように、見続けている。
「遥樹、あの人は自分のことを、なぜマルスと呼んでいたんだろう?本当は木村勉という名前だろ?」
コーヒーを一口飲んでから、茜の方を見る。
「人に尊敬されるような人になることを、望んでいたからじゃないかな」
「でも、結局は人を…」
「マルスにはアレスという裏の顔があったように、あの人にも裏の顔があることを、自分で無意識に気が付いていたんじゃないかな」
「その裏の顔は、弟さんの姿を借りていたんだろ?どうしてかな?」
「弟さんの死の原因の一端が自分にあるという自責の念と、父親の愛情を奪っていた弟さんの死を喜んでいた自分の葛藤に耐えられなくて、弟さんを悪者にしたんじゃないかな」
「悪いやつは、死んでも構わないと思えるから?」
「そうだろうね。でもやっぱり耐えられなくて、弟さんと自分とを同化させた…」
「人の心は弱いんだね。自分を愛してくれた人たちのことさえも、恨みに思って、呪ってしまう。皆、何かの切欠でそんな風になってしまうのだろうか?」
遥樹の頭の中で、自分とマルスの姿が重なりそうになるのを、打ち消そうとした時、言葉が漏れた。
「大丈夫。僕には茜がいるから…」
茜の目が、少し見開かれた。
遥樹は、茜に視線を向けた。
茜は慌てて、顔を上に向けた。
「ふーん。そうなの?」
空に向って言った後、再び遥樹に視線を戻す。
遥樹は口元に僅かな微笑を浮かべて、チューリップの球根を植えていた。その耳の奥には、植物たちの歌声が小さく響いていた。
茜は、先程の言葉の意味を聞こうと口を開きかけたが、口には出さず、横に座って球根を植える手伝いを始めた。
ずっと先もこうしているのだろうか、という考えが、茜の脳裏に一瞬だけ浮かんで消えた。
いつの間にか、微かな優しい歌声が聞こえてきていた。
それは樹々の中から漏れ出ているように、茜には思えた。
その頃、浅木が遥樹の元に向う車の助手席に乗っていた。
「以前に起きた、誘拐殺人事件の犯人は本当に木村ではないのですかね?」
運転席でハンドルを握っている波岡の口調は、不満そうだった。
「そうだな。守山風也の誘拐事件の前の二件の犯行は、木村ではないだろうな。アリバイもある」
「共犯者も、いないようですしね」
浅木が見上げた空は、灰色の雲に覆われている。
遥樹の周囲から、再び平穏さが遠のこうとしていた。
(了)




