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風也の封印

 遥樹は自分の中に深く堆積している疲労を、強く感じていた。しかし、休んでいる暇はない。

 茜はマルスの様子を見てショックを受けているようであるが、しっかりと足を地面に着けて立っていた。

 遥樹が視線を向けると、茜は「大丈夫よ」と言うように、頷いた。

 背後で人の動く気配がした。

「風也君…」

 遥樹は風也に近づいていく。

(逃げないで…)

 心の中で、その言葉を何度も繰り返している。

 風也の顔には、先程までとは違った表情が浮かんでいる。遥樹と出会った頃の風也に戻りかけている。

 でも、やはり違っている。こんなにも絶望したような色を、瞳の中に持っていなかった。こんなにも怯えた色が、瞳を覆ってはいなかった。

「来ないで!」

 風也は叩きつけるように、そう言って身を翻した。

 遥樹は素早く長い腕を伸ばし、風也を抱き寄せた。

 風也はもがいた。

 遥樹は力を強める。

 風也はさらにもがいた。

 遥樹は、しっかりと風也の体を抱き締めた。

 その時、遥樹の握っていた拳が開かれた。その中には一本の松葉があり、その尖った葉先が、風也の肌に浅く突き立った。

 風也の体が、大きく一度痙攣をした。

 遥樹はそれに反応して、さらに強く抱き寄せた。そこまでは、現実が明確だった。

 いつの間にか、風也は少し離れたところに立っている。その横にはマルスが立って、手を繋いでいる。

「風也君…」

 声が出ない。ぼやけていた輪郭が、さらに曖昧になっていく。

 遥樹は自分の存在が希薄になって、周囲に溶け込んでいくのを感じていた。

(風也を救って下さい)

 その声は、風也の松の盆栽から感じられた雰囲気と同じものを持っていた。そして、その言葉が波に流される舟を繋ぎとめる碇のように、遥樹の意識を繋ぎとめた。

 目の前の光景が、一瞬にして変化していた。現実感がないのは、肌に感じるはずの風の感触がないためであろうか…。

 まだ五歳ぐらいの風也の横に、老人が穏やかな顔をして座っている。

 二人の前には、風也の背丈ほどの椿がある。もう花の季節は過ぎているが、青々とした葉が生命力に満ちている。

 風也は椿の木に向って、微笑んでいる。まるで、そこに友達がいるかのように。

 それを老人は、何の違和感もなく眺めている。

「おじいちゃん。お日様が当たって、気持ちが良いのはなぜ?」

 初夏の陽射しは、人にとっては少し暑い。風也は目の前の椿の気持ちのことを、聞いたのである。

 祖父は、その風也の言葉の意味を問うこともなく答える。

「樹は、お日様から力をもらって生きているのだよ」

「そうか、お日様は元気にしてくれるんだね」

 風也は祖父に向けた笑顔を、そのまま椿の木にも向けた。

 目の前が白く濁り、それが晴れた時には、別の時間の光景に変わっていた。

 先程の風也よりも、少し大きくなっている。それでも、小学生なってそれほど経っていないであろう。曇った空の下、ぼんやりと立っている。そして、突然に倒れた。

 風也の祖父が走り寄ってくる。風也の名前を、何度も繰り返し呼ぶ。そうしていると、祖父の体の中に、周りの樹の力が集まってきた。その力を、風也の中に注ぐ。

 風也の目が開き、蒼白に変わっていた顔色が健康的な赤みを帯びた。

「おじいちゃん。僕…どうしたの?」

「少しの間、気を失っていたのだよ。ところで、何を見たんだい?」

 風也は視線を宙に向けた。

「ええと…急に叫び声が聞こえて、それから…覚えてない」

 祖父にも、その叫び声は聞こえていた。しかし二人の他には、その声は聞こえていない。

 風也が、このように気を失うのは初めてではない。祖父が知っているだけで三度ある。原因も分かっている。風也の特殊な力、樹を通して人の意識だけでなく、過去に残された意識さえも感じてしまう力のためである。それは祖父も持っている力である。

「おじいちゃんは、もう長くは風也と一緒にいられない」

「どうして?」

「おじいちゃんは、もうすぐ死ぬんだよ」

「なんで?」

 風也の表情が急速に雲って、不安が広がっている。

 風也にとって、最も心を許せるのは祖父である。両親は風也のこの力に対して理解を示さない。祖父の息子、つまり風也の父親は、この力の片鱗さえも持っていない。

「人は必ず死ぬのだよ。その時が、おじいちゃんにも、もうすぐ訪れる」

 一月前に医者から余命半年の宣告を受けている。末期の胃癌で、すでにかなり転移をしている。治療をしても完治する見込みはないということだったので、医師には痛みを和らげるだけの治療を頼んだ。少しでも長く風也の側にいるために、できるだけ入院しなくて良い方法を選んだのである。

 だが、残された時間では十分ではなかった。風也に、この力を制御する術を伝える時間はない。

 風也の祖父は、封印する方法を選んだ。

「風也、目を閉じるんだ。そして、もう一つ目を開けるんだ」

「もう一つの目?」

「周りの様子を、感じ取ろうとしてごらん」

 風也は瞼を通して、ぼんやりと景色が見えてくることに違和感を覚えなかった。物の細部までは分からないし、色も変であるが、それらが何であるのか分かった。草や木は内側から仄かに光が滲み、車や石などの生命のないものは暗く沈んでいる。

 その光景は今まで意識していなかったが、目で見ていた光景と、重なっていた時があったような気がする。

 祖父は風也の頭に掌を乗せた。風也の意識の奥に、樹々の意識を通して入っていく。

 封印をしながら祖父は願っていた。これから先、風也がこの力を必要とすることがないように、そして、この力が風也の子供たちに受け継がれないようにと。

 風也の祖父は、それから一年近く後に、この世を去り、松の盆栽が風也に残された。

 本来ならば、封印は風也の成長と共に強固になり、一生の間、力が現れることはないはずであった。しかし、遥樹に出会ってしまった。それが風也の力の発現の呼び水となった。

 そんな時に出会ったのが、マルスである。しかも、マルスの意識を伝える媒介となる樹々が多くある山の中へと入って行った。

 それまで封印され、力を制御することを全く会得してこなかったことが、さらに悪い方向へ働いた。マルスの負の意識を、何も警戒することなく受け入れてしまった。

 風也の意識の中に、マルスが現れた。

 遥樹の知っているマルスとは、印象が異なる。目が不安そうに動き回ることもなく、暗く沈んだ視線を落ち着いた様子でこちらに向けている。

(風也君からは、あの人がこんなふうに見えていたのか…)

 突然、マルスが風也を叩き始めた。

 風也は耐えている。泣き叫ぶことさえも、怖くてできない。

 そんな時、マルスの意識が入り込んできた。

 達弥。

 マルスにとって、絶対に逆らえない存在だった。マルスの恐怖から逃れるために、その存在が風也には必要だった。風也はマルスから達弥を引き出し、自分の中に取り込んだ。

 しかし、それだけでは終らなかった。マルスの中では、達弥という存在と狂気とは切り離せないものであった。つまり、風也の中に入り込んできた人格は、達弥という名の狂人であった。マルスの中で達弥は世の中全てに対する復讐者であり、死後の世界への案内人であった。

 それはマルスが弟を救えなかった自分への罪悪感の中で、歪んでしまったイメージであったが、風也にとってはそれが全てだった。

(風也君は、こんなにも強く呪縛されていたんだね)

 遥樹は、風也を救う方法を見つけた。

 達弥という存在を全て、遥樹の中に取り込むのである。危険な方法である。遥樹が達也の意識を自分の中に封じ込めるか、浄化することができなければ、風也の二の舞になることになる。

 他にも方法がないわけではない。しかし、それでは風也が元に戻らない可能性が高い。

 遥樹は大きく息を吸い込んで、意識を集中した。

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