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松葉

 マルスは腰を大きく曲げて、背中に守の体を乗せている。

 口と鼻の両方で息をしていても、酸素が肺の中に十分行き渡らないように思えた。それに、喉も渇いていた。

 周囲が騒音で満ちているのか、静寂で満ちているのか分からない。風也の声以外は、今のマルスにとって存在しない音であった。

「この辺りで、いいんじゃないかな…」

 マルスはへたり込むように膝を着いた。

「うっ…」

 守の口から、小さな呻き声が漏れ出てきた。

 マルスの顔に不安が満ちる。呻き声が途切れ、目が開かないことを確認するまで、マルスの視線は守の顔の上から動かなかった。

「殺そう…」

 風也の声には力がなく、小さな子供でさえ従わせるのは無理であると思えるほどである。

 しかし、マルスはその声に鞭打たれたように体を震わせてから、風也を見た。そして…ゆっくりと守に目を移す。

「うん…」

 マルスは周りを見て、凶器になりそうなものを探した。五歩ほど離れたところにあった拳よりも二回りほど大きな石に、一瞬だけ視線を置いたが、すぐ目の前に自分の掌を広げた。

 守の喉に手を置いた。

 マルスは、ゾクリとした恐怖と快感の入り混じったものを、痺れたように思考の停止した頭の隅で感じていた。

 マルスの手に、力が込められる。

 ゴフッと守の喉が鳴り、目が開いた。その目は何かを探すように激しく動いていたが、大きく見開かれたまま、マルスの顔の上に止まった。

 小学四年生にしては大柄な体を持つ守の力は、非力なマルスには押さえつけることは難しかった。

 しかし…マルスの手は、守の力を急速に奪っていく。

 守の瞳から、生気の光が消えかけている。


 遥樹は走った。

 目指す場所は分かっていた。自分でも驚くほど鮮明に子供が助けを求める声、物理的な音ではなくて、意識の中に直接響いてくる声が、どこから発せられたか感じ取っていた。

 遥樹に突然に追い越された浅木は、慌てて後を追いかける。


 茜はすぐに二人の足跡を見失った。そして、携帯電話の画面から発せられる光だけでは周囲から押し寄せてくる闇を押し返すどころか、阻むこともできない。

 不安になりながらも、茜は遥樹が向ったと思われた方向に、ゆっくりと歩き始めた。


「待ってくれ」

 浅木の声は、遥樹には届いていないようである。

 遥樹はライトを持っていないが、足を蔓などに取られることもなく浅木との距離を広げていく。

 樹々が呻いているようだった。強い風が樹々の梢を激しく揺らし始め、その音が森全体に重く沈殿している。

 風に吹き荒らされている森の樹々たちの意識が、遥樹に助けを求めている。

 樹々たちが訴えているのは、強風によってもたらされる痛みではない。樹々の意識の中に錐を刺し入れるような悪意の放射である。

 それは等しく森全体を傷つけている。

 悪意の発信源が、ようやく視界に入ってきた。

 その光景に驚き、声が迸ろうとした時、風也が目の前に現れた。

 喉の奥で、行き場を失った声が消えた。出てきたのは、心の動揺をそのまま表している掠れた声である。

「風也君…」

 風也の目には、遥樹が映っていた。しかし、遥樹の店に来ていた時の目とは別人、それも荒んだ生活を長年送ってきた老人のような目になっていた。

(あの時見たものは、見間違いじゃなかったのか…)

 遥樹の脳裏には、山火事の山中でマルスの運転する車の隣に座っていた風也の顔が、浮かんでいた。その目は今、目の前にいる風也のものと同じである。

 遥樹はマルスに飛び掛るために、風也を避けた。

 マルスは守の首に手をかけたまま動きを止めて、遥樹を見ている。

「ぐっ…」

 遥樹の頭の中で、痛みが突然に湧いた。目の前が暗くなるほどの痛みである。

「こっちが先だね」

 風也の声が聞こえてきた。

 その声で遥樹は、どこかで予感していた風也の変貌がはっきりと分かった。それは山火事の山中で風也の目を見たときから、本当は分かっていたのかも知れない。そして、それを遥樹の心が認めたくなかっただけなのかも知れない。

 ドサリと、地面に重いものを投げ出す音が聞こえてきた。

 足音が近づいてくる。

 マルスの手が、近くに転がっている石を拾い上げた。拳よりも二回りほど大きな石である。それを振り上げる。

 その時、遥樹の目がマルスの方に向いた。

 ギクリと、マルスの体が一瞬強張り、握っていた石が苔のせいもあって滑り落ちた。

 遥樹の焦点の合っていない視線は、すぐに再び地面に戻っていた。

「兄ちゃん」

 風也は別の石をマルスに差し出している。

 マルスは先程よりも一回り大きい石を受け取り、遥樹の後頭部に振り下ろした。

 しかし狙いが外れ、遥樹の首の付け根辺りを石は痛打した。

 その痛みは、遥樹の頭の中の痛みと痺れを少しだけ遠ざけた。

 マルスが慌てて、もう一度石を持ち上げ、振り下ろす。

 遥樹は地面を転がるようにして、逃げた。

 マルスの手が振り下ろされたところには、すでに遥樹の体はない。そのまま膝立ちになって、追いかける。

 遥樹は立ち上がった。いや、立ち上がろうとした。足を地面に突き立てて力を入れると、体は浮き上がったが、倒れていく。右手がどうにか顔と地面との激突を防いだが、再び膝が地面に着いた。平衡感覚に、異常をきたしているらしい。

「止めるんだ!」

 浅木の声が響いた。拳銃を探していた手が止まる。今は休暇中であることを思い出した。

 浅木は自分が拳銃を持っていないことに初めて、苛立ちを覚えた。もし持っていても、今の状態で使えるとは思えないが、犯人に対してかなりのプレッシャーになるはずである。

 マルスも、動きを止めている。浅木の懐中電灯から発せられた光の中で、恐怖に歪んだマルスの顔が浮かんでいる。

(大丈夫だよ)

 風也の目がそう言っているのが、マルスにははっきりと見えた。再び、遥樹に襲いかかる。

 風也の目が細められ、浅木に向けられた。

 浅木は吐気が、急速に強まっていくのを感じていた。

 そして、足が地面に張り付いているように重い。右足に渾身の力を込めて引き上げると、ブチリと草が引きちぎられる感触が伝わってきた。

 その足を下ろし、左足を引き上げようとした時に、喉を何かがせり上がってきた。胃酸の味が口の中に広がり、さらに体積を増したそれが口から迸り出た。

 体中から力が抜ける。自分の体が、思うように動かないもどかしさがある。

 草を踏む音が、急に浅木の耳に入ってきた。首を弾かれたように曲げて、その音を発している人を見る。

 茜が立っていた。

「遥樹?」

 茜の目は、前方に固定されて動かない。そこには遥樹の姿があるはずだが、闇に邪魔されている。

「それ以上は、近づくな!危険だ!」

 苦しそうな浅木の声にも、茜は反応しない。

 くぐもった呻き声が届いてきた。

「遥樹!」

 茜の視界が開けた。なぜだか分からないが、急に闇が消えた。しかし、いつも見ている景色とは少し違っていた。人の内側から淡い光が発せられていて、人型の蛍光体が浮かんでいる。そして、それより少し弱い光で樹々、さらに弱い光で草たちが光っている。色合いは、分かるようでいて分からない。色があまりにも淡く、そして色を感じたと思った次の瞬間には、別の色に変わり始めている。

 遥樹の近くにいる人型の蛍光体が動いた。遥樹も同じ蛍光体であるが、なぜかそれは間違いなく、遥樹だと分かった。

 茜が動き出そうと、足を踏み出すと何の抵抗もなかった。足元に絡みついていた草たちが、逆に足を押しているようにさえ感じられる。草たちが先程までの妨害を止めて、急に味方になったようである。

 茜の手には、松の葉があった。浅木の車の助手席側のドアが開いていて、無意識に座席の上に置いてあった松の盆栽に手を伸ばした。

 すると、盆栽から茜の掌の上に一本の松葉、布団針のような葉、が落ちてきた。

 茜は何の疑問もなく、その葉を手で包み込んだ。それは、その葉から遥樹の気配を感じ取ったからなのか、見覚えのある松の盆栽が気になっただけなのか…。

 森が鳴動した。

 氾濫した音の中から、獣の絞り上げるような鳴き声が茜の耳に届いてきた。その音の発生源を探す。

(風也君?)

 顔の輪郭がはっきりしないが、体の大きさからすると風也のようである。しかし、声は小学生が出すものだとは思えない。

 再び、森が鳴動した。風也の発する声に、呼応している。

 茜は遥樹に、急速に近づいていく。

 遥樹は茜に気が付いた。全ての感覚がどこか遠くに感じられる中で、茜の姿ははっきりと目に映った。

 ゆっくりと伸ばした遥樹の手に、茜の手が近づいていく。

 二人の手が触れた。

 その次の瞬間に、茜の体がなぎ倒された。

 マルスの肩が、茜の足を横から直撃していた。マルスが駆け寄ってくる茜に、無意識に反応してしまったのである。

 マルスは混乱しながらも、茜がぐったりと動かなくなっていることを見て取ると、地面に着いた手のすぐ横にあった、ソフトボールほどの石を握った。そのまま遥樹に向って這って行き、膝で立ち上がると石を振り上げた。

 マルスの視線は、遥樹の頭部に固定されている。

 石が重力とマルスの腕力により、加速していく。遥樹の頭蓋骨を破壊するのに、十分な威力が存在している。

 遥樹は風を感じていた。

 いつも樹々たちに囲まれている時の感じが、戻ってきていた。ふわりと、全身を仄かに温かく極薄い布で包み込まれているような…。

 風に体を乗せるように動く。

 土に石が突き刺さる音がして、マルスの体が続いて倒れてくる。

 攻撃を避けた遥樹は、流れるような動きで立ち上がり、両手を地面に着いたマルスの後頭部に、掌を押し当てた。

 マルスは太い糸が切れたような音を聞いた気がした。その音はまるで、頭の中から響いてきたような気がした。そして、今まで体に充満していたエネルギーが霧散してしまい、体にも心にも力が入らない。

 マルスは自分の体が、ゆっくりと崩れるように倒れるのを、漠然と感じていた。それを止めようという気力は湧いてこない。それどころか、何か甘美なものさえ漂っている。

「兄ちゃん!何しているんだよ!」

 風也の叱責にも、マルスは反応しない。

「許さないよ」

 風也の目が遥樹に向けられた。その目には、はっきりと憎悪が浮かんでいる。

 遥樹は無言で、風也に近づいていく。

「わあーーー」

 風也の喉が張り裂けるかと思うぐらいの叫び方だった。

 森が鳴動する。

 風也の声の周波数に合わせて、鳴動している。

 浅木は地面に膝を着いて、苦痛に顔をしかめている。

 マルスは仰向けに横たわっている。

 茜は横向きに倒れたままで、意識が朦朧としている。

 守は動かない。

 遥樹はその中で一人だけ、何事もないような顔をして立っている。いつもと違うのは、口元に柔らかな微笑が浮かんでいないことだけである。

「もう、大丈夫だよ」

 遥樹は、風也の肩に手を置いた。

 風也の叫び声が止まる。見上げた顔には、遥樹のよく知っている表情、どこか自信がないように見える優しさを秘めた表情、が浮かんでいる。

 風也の口が僅かに開く。言葉が出てこようとしたが、掠れた音だけしか出てこなかった。

 遥樹に微笑が浮かぶ。

 風也は唾を何度か飲み込んで、再び声を発しようとした。

「裏切るの?だめだよ!」

 その叫びは、マルスの口から出ていた。

 風也の開きかけていた口は堅く閉じられ、見開かれた目はマルスを見つめている。そして、肩に置かれた遥樹の手を振り解いて、一歩下がり、再び遥樹を見上げた。

「木神さん…邪魔をしないでくれませんか?そうでないと…」

 遥樹は風也の声を遮るように、声を発した。

「なぜですか?なぜ、殺さないといけなかったのですか?」

 遥樹が問うているのは、風也に対してであって、風也に対してではなかった。風也の中に、すでに魂まで入り込んでいる邪気と、その邪気を風也の中に送り込んだ者であるマルスに対してである。

「僕が死んだ時に向うの世界で友達がいるように、先に行ってもらっただけだよ。僕も、すぐにあっちの世界に行く」

 そう言った風也の口元に、微笑が浮かんでいる。ゆっくりと、歩いていく。その先にはマルスが立ち上がっていた。

 風也がマルスの背後に隠れる。

 マルスが、首だけを風也の方へ向けた。

 マルスが遥樹の方へ向いた時、その手には、銀色に光る鋭利な凶器が握られていた。一瞬前まで、マルスが持っていないものだった。

 刃渡り十五センチほどのナイフを握っているマルスの手は、小刻みに震えていた。それはナイフを使うことの躊躇ではなくて、緊張によるものだった。

 マルスは右手を振り上げながら、遥樹に走り寄る。

 遥樹はナイフの軌跡を、どうにか避けることができた。

「兄ちゃん。ナイフは振るんじゃなくて、突くんだよ」

 茜の方に一瞬だけ視線を向けてから、遥樹は走り出した。茜から二人を遠ざけたかった。そして、もう一つ理由が…。

 マルスは、遥樹を追いかけ始めた。

 風也の様子を確認する余裕は、遥樹にはない。

 数十秒走っただけで、遥樹は立ち止まった。

 樹々の意識、そして力が感じられた。この辺りの樹々の意識は、風也とマルスにあまり傷つけられていない。もう一つの理由はこれである。

 マルスが急速に近づいてくる。

 周囲の空気が少し暖かくなったように、遥樹には感じられている。

 マルスの動きが止まる。強張っていた表情が柔らかくなっていた。

 その時、マルスの意識の中には温かいものが充満していた。その中に昔の記憶が流れ出てきていた。思い出したくない記憶も混じっているはずなのに、辛さはない。まるで映画を漠然と見ているような感覚である。

 マルスは、ゆっくりと近くにある樹の幹に体を預けた。

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