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森の奥

 茜は道の脇に止めてある車の横に、自分の運転する車を止めた。タイヤの下で、砂利が苦鳴を上げる。

 ドアを開けた時に、違和感を覚えた。

「遥樹は、本当にいるの?」

 周囲を見渡す。遥樹がいる森であるとは思えない空気が流れている。

 遥樹がいる森は、フワリとした雰囲気を出しているはずである。こんなに沈んでいることはなかった。遥樹の祖父が死んだときでさえも、遥樹が樹に近づけば、沈んだ中にも温かさがあった。

 茜は自分の内部で、一気に不安が膨張していくのを止められなくなっている。

「檜山さん!」

 茜を呼ぶ声が樹々の間から聞こえてきて、声の主が車のライトの中に姿を現した。森に似つかわしくないスーツ姿の男には、見覚えがあった。

「浅木さん!遥樹はどこですか?」

 声に棘が含まれているのは、浅木に怒っているというより、遥樹のことを心配しすぎて、余裕がなくなっているからであろう。

「懐中電灯は?」

 浅木も表情に焦りの色が見える。しかし、すぐに冷静さを前面に押し出すことに成功した。

 浅木は落ち着きを失っている茜に手短に、遥樹が森の中に、風也と誘拐犯を追っていったまま戻ってこないことを説明した。

「なぜ止めなかったの!」

 確かに浅木としては、遥樹を一人で行かせるべきではなかった。誘拐犯が武器を持っている可能性は高い。

「文句は後で聞く。懐中電灯を貸してくれ」

 茜は口を開きかけたが、すぐに閉じて、車のダッシュボードから懐中電灯を取り出した。

「遥樹はどっちに行ったの?」

 浅木は懐中電灯を受け取るために差し出した手を、さらに前に出した。

「君は、ここで待つんだ」

 茜は首を振る。

「私の方が、遥樹を見つけられる」

 茜は浅木の横を通り抜けて、森に踏み込んで行こうとした。

「だめだ!危険なんだよ」

 茜は少し足を止めたが、辺りに懐中電灯の光を巡らせながら、森の奥に歩き出す。

 浅木は茜の肩に手をかけて止めようとしたが、茜に振り向いて強固な意志が現れた視線を投げかけられると、小さく溜息を吐いた。

 押し問答をしている時間はなかった。すでに多くの時間を無駄にしている。

「木神君はあちらに行った」

 浅木は自分で指差した方に歩き始めた。その目の前に、懐中電灯が差し出される。

「もう一つあるから…」

 茜のもう一方の手は、ペンライトが握られていた。

 浅木は光を、森の中に向ける。そこは全く見覚えのない場所に変わっている。薄暗くても陽の光が少しでもあるのと、ないのとではあまりにも違っている。闇は深く、懐中電灯の光では、その重圧を僅かしか押し退けることができない。

 浅木は、少し進んで立ち止まった。

 どちらに行ったら良いか、全く分からない。耳を澄ましても、樹々の葉擦れの音が耳の中で反響するだけである。

「どっちなの?」

 茜の声には、苛立ちが浮かんでいる。

「…分からん」

 浅木は何度か懐中電灯の光を周囲に投げてみたが、やはり進むべき方向は見出せない。闇雲に動きだしたい衝動が込み上げてきたが、それをすると事態はさらに悪化することは明白である。

 茜はペンライトを森に向けた。その光は、森の中までは届かない。

 ふと、寒風に混じって凝縮された冷気が流れているのに気が付いた。それは先程感じた違和感と、共通するものを含んでいる。

 それはあまりにも微かなものであるが、今はそれ以外に手掛かりはない。

「どこに行くつもりだ?闇雲に行くのは危険…」

 その声に全く反応することなく、茜は歩いていく。

 茜は意識の奥底で、小さな警告音が響いているような不安な感じを拭いきれなかったが…。

 浅木は茜の迷いのない足取りを見て、横に並んだ。茜を危険な場所に、先に行かせるわけにはいかない。

 樹々の葉擦れの音が大きくなってきている。

 人の声が耳に入ってきたような気がして、浅木は手で止まるように茜に合図をした。

「早く…」

 子供の声が届いてきたが、何を言っているのか判然としない。緊迫感だけが伝わってくる。

 二人はライトを下に向けて、足元以外に光が逃げないようにした。

 草を掻き分けながら、ゆっくりと進んでいく。時々、鋭い枝や葉が、それらを押し退けようとする手に食い込んでいく。

 光を前に向けられないために、状況が分からない。

 声が、かなり近づいてきている。おそらくは、十メートルほどしか離れていない。声との間には、樹木や草たちがいくつもある。

「簡単だろ。相手は気絶しているんだ」

 マルスは手の中にある自分の腕ほどもある枝を、強く握り締めた。乾いていた樹皮の感触が、今は自分の汗で湿っている。

「分かったよ。殺せばいいんだろ」

 その言葉に、真っ先に反応したのは浅木である。左腕を風が唸るほどの勢いで上げ、懐中電灯の光を向けた。

 闇の中から浮かび上がってきたのは、一人の若い男が血走った目を異様に見開き、その両手には重そうな棒が握られている姿だった。

「何をしている!やめるんだ!」

 浅木は反射的に叫んでいた。

 マルスは突然に向けられた明かりで、自分の中に爆発寸前まで膨張していた激情が、一瞬にして凍りついたのが分かった。

 今まで暗闇の中でも、なぜか見えていた周りの様子が闇に沈んだ。懐中電灯の明かりが近づいてくる。耳には意味を成す音は入ってこない。甲高い音が、耳の奥で渦を巻いているだけである。

 マルスは無意識に数歩、後退っていた。そして、一気に後ろに行こうとして、足を草に取られた。闇雲に手足を動かして体を起こし、目を上に向けた。

「早く逃げよう」

 樹々の間に見える夜空を背景にして、風也の姿が浮かび上がった。その表情どころか、輪郭さえも朧げであったが、不機嫌になっていることがはっきりと分かった。

「なぜ逃げるの?まだ、やることが残っているだろ?」

 ざわりと、森が唸った。

 浅木は、一瞬にして平衡感覚を失った。足を伸ばしている方向と、自分の行きたい方向がずれていることに気が付いたが、それを修正するより、ずれていく方が早い。数歩、それが限界だった。肩が地面に激突し、その衝撃が頭にまで響いてきた。

 その後ろで、茜は自分の頭を押さえていた。その手を離せば、頭蓋骨が内側から音を立てて割れるような気がするほどの痛みであった。

 茜は必死で周りを見渡した。痛みのために吐気も襲ってくる。

 暗闇の中から、笑い声が届いてきた。子供の声である。しかし、子供の声にしては、あまりにも荒んだ響きの声である。人生に絶望した中年の男が無気力に発する笑い声が、子供の口から出ている。

 茜は遥樹に向って歩いていく。

 先程、浅木の懐中電灯が一瞬浮かび上がらせたのは、確かに遥樹の横顔であった。

 茜の目の奥に、その蒼白になった顔が焼きついている。

「遥樹…」

 茜は遥樹が生きていることを少しでも早く確かめたくて、痛みを堪えながら歩いていく。

 マルスは立ち上がった。

 風也が指差している先には、守がいた。ぐったりと、横たわっている姿が、不鮮明な輪郭を描いている。

「連れて行こう」

 マルスは、その言葉に安堵の溜息を小さく吐いた。守をすぐに殺すように言われると予想して、体を硬くして言葉を待っていたのである。束の間先延ばしになるだけであることが分かっていても、気持ちが軽くなるのは否めない。

 力が抜けている人を抱え上げるのは、想像以上に大変だった。守は小学四年生にしては大柄であるし、マルスは力がある方ではない。

 それでも、どうにか守を半分引き摺るようにして歩き始めた。


 浅木は少し治まってきた頭痛と、まだ続いている吐気に堪えながら、立ち上がった。

「遥樹!遥樹!」

 茜は声を上げた。持っていたはずのペンライトは、どこにあるのか分からない。倒れた時に手から離れ、地面に激突して壊れたのであろう。

「大丈夫か?」

 少し離れた所からの浅木の声に、茜の背中が強張る。しかし、すぐにその声の主が誰であるか思い出した。

 浅木のライトが照らした先に、遥樹の姿が浮かび上がった。

 茜は飛び込むようにして、遥樹の横に座り込んだ。

「遥樹!大丈夫なの?!」

 茜が両腕で抱え込んだ遥樹の頭部から、液体が流れ出てきている。粘り気のある、その液体の触感には覚えがあった。そして、その匂いにも…。

 遥樹がまだ小学生の頃、高い木から落ちて腕に裂傷を受けた。落ちた高さの割には軽症であったが、それを見ていた茜には、かなりの精神的衝撃であった。その時の血の感触と匂いは、鮮明に覚えている。

 暗がりの中で、ぼんやりと浮かんでいる遥樹の姿からは傷の様子は分からない。少しでも早く、それを確かめるための明かりが欲しい。

 浅木は周囲に光を投げて警戒しながら、茜に近づいていく。

 少し前まで、すぐそこにいたはずのマルスの気配が、消えている。

(逃げたのか?それとも、その辺りにいるのか?)

 森がいつの間にか、少しだけ静けさを取り戻していた。異様なざわつきがなくなり、風が梢を揺らす音が森に満ちていた。

「木神君、大丈夫か?」

 遥樹の横に身を屈めて、懐中電灯を向ける。

 茜の腕の中にいる遥樹の顔色は、白く見えた。仕事で日焼けしている顔のはずが、今は肌の上に乳白色の膜を形成しているようにさえ見える。それは、頭から頬に流れている血のために、そう見えるのかも知れない。

 瞼がピクリと動いた。

「遥樹!遥樹!」

 茜の呼びかけに、遥樹が反応する。開いた目の焦点が、茜の上に合った。

「茜…」

 遥樹は立ち上がろうと、体を動かし始めた。

「動かないで!怪我しているんだよ」

 遥樹は茜の言葉で痛みを思い出したように、後頭部に手を当てた。

 それでも、茜の腕の中から抜け出して立ち上がった。

「風也君は、どこに行ったのですか?」

 浅木に気付いて尋ねた。

「分からない。そんなに遠くには、行っていないと思うのだが…」

 遥樹は頭に当てていた手を離して、掌を見た。掌全体を赤く染めるほどの出血に初めて気が付いて、顔をしかめた。

 しかし、すぐに視線を森に向けた。ゆっくりと息を吐き、吸った。

「何をしようとしている?すぐに病院に行かないとだめだ!」

 茜の声は、厳しいものに変わっていた。遥樹への心配が、再び頭をもたげてきていた。

 浅木は遥樹の目を覗き込むように見た。

「どこに行ったか教えてくれ。俺が犯人を捕まえてみせる!」

 浅木の持つ懐中電灯に照らされた樹々は、行く手を遮るように、その巨体を並べている。

「茜、ここを動かないで…」

 茜は遥樹の静かだが決然とした声に、引き止めることを諦めた。遥樹がこんな声を出す時は、何を言っても無駄である。普段は、茜の言う事に反対することはないのだが…。

 遥樹は歩き始めた。

 その後について行こうとした茜を、浅木が止めた。

「ここで待っているんだ」

 茜は反論しようとしたが、そんなことを言い争っている場合ではないと思い直した。

「俺が行く」

 浅木が遥樹の前に出た。二人は慎重に、森の奥に足を踏み入れていく。木立がすぐに二人の姿を茜の視界から隠した。

「私が大人しく待っているはずがないでしょ?」

 茜は小さく言葉を吐いた。ズボンのポケットから携帯電話を取り出して、画面を点ける。森の闇の中ではあまりにも心もとない光だが、足元を照らすぐらいの役には立つ。

 茜は勢い良く一歩を踏み出した。そうしないと、すぐに立ち止まってしまいそうだった。

 五分ほどが過ぎた頃、浅木は不安になって振り返った。

「こっちで本当にいいのか?」

 遥樹は一瞬の間を置いてから頷いた。

 実を言うと、確信はなかった。

 樹々のざわめき―音によるものと、遥樹の意識に響いてくるもの―が大きすぎて風也たちの気配が微かに、しかも断片的にしか感じ取れない。

 そして、風也やマルスの考えている内容は分からず、悪意と怖れが混在したものを感じ取れるだけである。

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