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森の闇

 マルスはバックミラーを見た。

 風也と守が楽しそうに話している。笑い声を上げたり、ひそひそ話をしたり、まるでずっと前からの友人であったかのような親密さである。車に乗り込んできた時の守のどこか不自然さを内包していた表情も、かなり自然なものに変化してきている。それでも、目の奥に時々現れる陰りが消えたわけではない。

 フロントガラスの向うには、ライトに照らされ浮かび上がった道と、その奥に広がる広大な闇が存在している。

 マルスはふと、その闇に自分の魂が吸い込まれ、ドロリとした粘性のあるものの中に、ゆっくりと拡散するイメージが頭の中に突然に割り込んできた。

(頭が重い…)

 ふと、風也と守の会話が途切れた。

 風也は守に向けていた視線を、窓の外に向ける。

「静かなところに来たね」

 それは守に向けられた言葉ではなかった。

 マルスが一瞬の間を置いてから頷く。

 エンジン音とロードノイズが沈黙を埋めたが、車内に流れ出した緊張感は、さらに存在感を増すだけだった。

 守は沈黙を破る切欠を探した。しかし、急速に重さを増していく沈黙は守の口を麻痺させる。

 風也は静けさを湛えた目で、守を見た。

 守は風也の目の奥を覗き込んだ。そこには深い冷ややかさが感じられた。

 そして、すぐに後悔した。風也の目を覗きこんだこと、この車に乗ったこと、風也と言葉を交わしたことを…。

「帰る…」

 守のその声は小さすぎて、唇から出て、すぐに消えた。

 風也は守から視線を外さずに、唇を動かす。

「兄ちゃん。車を止めて…」

 車が止まり、ライトが消される。外には夕闇が迫ってきていた。

 守はシートから伝わってくるエンジンの振動が、自分の頭の中まで揺すって思考を妨げているように感じていた。麻痺したように何も考えられない…。

 そして、目を閉じることもできない。目はあまりにも見開かれて乾いてきているため、痛みさえ感じられるが、瞬きすることさえ怖い。自分の目が閉じられた時に、風也の顔が変化し、恐ろしいことが起る予感がしている。

「守君…降りようか?」

 風也はドアノブに手を置いた。

 守は弾かれたように、首を激しく横に振った。

 風也の表情が変わった。微笑を湛えていた目や口は、何の感情も表さない白磁器のような冷たさを内包した。

「降りるんだよ…」

 声は静かであり、威圧的なものは含まれていなかった。

 守は首を小刻みに横に振った。人一倍、自分に向けられる悪意に敏感な守は、風也の静けさの中にある深い悪意に反応していた。

「何を怖がっているの?」

 風也の左手が、守の右腕を掴んだ。

「ひっ!」

 風也の力は、予想外に強かった。守もかなり細い腕であるが、風也の腕も細い。しかも、守の方がかなり背が高いので、力は完全に守の方が強いはずである。それなのに守は、風也の力に抗することができない。

 守は風也の腕に引かれるままに、車外に出た。

 マルスはどこかに痛みを抱えているような表情で、二人の子供を見ている。手の先が冷たさと緊張で凍えて、感覚が遠くなっている。

 風也の眼差しが、マルスを捉えた。

「兄ちゃん…」

 ざわりと、周囲の樹々が揺れた。その音が肌に伝わってきた。緑の匂いが充満している。頭の奥で、平常心を失わせる何かが蠢いている。

 マルスの目から意思の光が消える。風也から視線を外すと、無表情の仮面を顔に貼り付けて、守に近づいていく。

 残り三歩。

 マルスの右腕が上がる。

「うっ」

 マルスの頭の中に、痛みが生まれた。額の奥に何か小さな針が打ち込まれたような痛みだった。

 しかし、すぐに痛みは去って、閉じていた目を開いた。その視界には守の後姿が映っていた。それは瞬きするよりも、少し長いだけの時間の出来事だった。

 守は走り出していた。マルスの手が自分に届く寸前に、呪縛が解けた。今まで多くの呪縛に絡め取られてきた。親、自分をいじめる同級生、学校という得体の知れなくなってしまった場所…。それらは毎日、自分を締め上げていた。

 今日、それらから開放してくれるものに出会った…と思った。しかし、それは自分を今までのどれよりも強く絡め取るものであった。身動きさえもできないほどに…。

 それなのに、守はその呪縛を振り解いて逃げ出すことができた。今まで多くの呪縛に曝されて耐性ができたからなのか、あまりにも強い呪縛に体が自然と反応したからなのか分からなかったが、とりあえず風也から逃げることができたのである。

「兄ちゃん、追いかけて!」

 マルスは、その声に突き飛ばされるように走り出した。左の足先に硬いもの、木の根が当たった。崩れたバランスを立て直すために右足に力を入れたが、体重を完全には支えることができなかった。

 膝を着いたところには、拳ほどの石があった。痛みが突き抜け、呻き声となって口から溢れた。

 膝を両手でしっかりと包み込むと、僅かに痛みが遠ざかったが、まだ動けない。全身に痛みという毒が回って、体の機能を奪ってしまったようである。

 浅くなっていた息が、元に戻りきる前に立ち上がった。痛みはあるが、歩けないほどではない。明日には膝の周辺は内出血で青紫に変色しているだろうが、今は動かせる。

 ふと後ろを振り返ると、すぐ近くに風也が立っていた。

 その顔には明らかに怒りが浮かんでいる。山小屋を出てから、初めて感情をはっきりと表している顔である。

 マルスは、風也の顔に一瞬だけ視線を止めて、再び走り出した。視線の先の森の中には夜の闇がすでに凝集していて、守の姿を隠していた。


「ここです」

 遥樹は車が止まると同時に、飛び出した。確かに、ここから樹々のざわめきが伝わってきた。周囲に視線を巡らせる。

 遥樹の目は森の中へと続いていく微かなものを見つけていた。下草が五十センチほどの幅で倒れている。数人の人が通った跡と思われた。

 遥樹はそこに吸い込まれるように走り出した。

 近くに止まっていた無人の車の中を覗き込んでいた浅木は、遥樹が走り出した気配に気付いた。

「どこに行くんだ?…ちょっと待ってくれ!」

 浅木も遥樹の後を追いかけて走り出した。

 遥樹は、しばらく行ったところで足を止めた。森が深くなり樹々が多くなった分、薄暗くなり、下草も少なくなってきたために、人が通った痕跡を見つけることが難しくなってきていた。

 浅木は革靴に纏わりつく草を、引きちぎるように走る。しかし、すぐに転びそうになってしまい、速度を緩めた。

 携帯電話が振動と共に、騒音を撒き散らし始めた。浅木は遥樹が立ち止まっていることを確認してから、携帯電話をスーツのポケットから取り出した。先程と同じ相手、つまり茜からの着信である。

「着きましたよ。どこにいるんですか?」

 自分たちのいる場所を説明するのも、状況を説明するのも、できることなら避けたかった。犯人がすぐ近くにいるかも知れないのである。

「今、取り込んでいるから、後でこちらから連絡します」

 茜はその言葉で、急速に体温が上昇するのを感じた。

「ちょっと待ちなさいよ!あなたが、ここに来れば遥樹がいると言ったのでしょう!」

 足元が悪くて、体のバランスを崩した。浅木はどうにか、近くにあった樹の幹に手を着いて体勢を立て直す。

 視線を上げると、遥樹の姿は消えていた。

 携帯電話は、手の中で電波が届いていないことを示していた。

 浅木は、遥樹の姿を最後に見た場所まで来て、周囲を見回した。視界には樹や草しか目に入らない。

「どこに行った?」

 すでに陽が落ちかけていて、樹々に閉ざされた森の中は闇の中に埋没している。

 車のダッシュボードには、ペンライトが入っているはずであった。もうすぐ、自分の足さえも見えなくなることは確実である。闇と共に寒さも充満してきて、体の自由を奪っていくように思われた。

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