依頼人
遥樹は車を降りた。その車は、祖父が長年使っていた小型トラックである。薄緑色の車体は、製造されて十七年が過ぎている。かなり痛んでいるが、この車を、買い換える気にはなれない。祖父に連れられて様々なところに行った思い出が残っている。
門から玄関まで石畳が長さ約二十メートルにわたり、一メートルほどの幅で敷かれ、その両脇には玉砂利が樹々までの緩衝地帯となっている。
立ち止まって、庭を見る。
昔はかなり立派な庭園であったと思われる造りをしているが、今は雑草と手入れの行き届いていない樹々が庭を占拠している。
そして、何の説明がなくても、一本の樹が目に入ってくる。広い庭に何十本と生える木々の中で、一際巨大な姿。
それが楡の木だと確信するのに、少し時間が必要だった。少し厚みがあり、縁に鋭く鋸状になっている葉は、普通の楡の木より緑が薄い感じがする程度で違いがないが、幹や枝が異常なのである。楡の木の樹皮は灰色で、歳を経てくると割れて鱗片状になるのだが、この樹の樹皮は黒ずんでいて、幹や枝が何かの外力に長年耐え続けてきたかのように、不気味に捩れている。
この家の主である老人が遥樹の店にやってきてから、一週間が過ぎている。この一週間の間に梅雨が明け、急激に夏が迫ってきていた。
陽はすでにかなり高い位置まで昇っているが、まだ昼間の暑さよりも、朝の清々しさの方が多く残っている時間である。
玄関前に、老婆が立っていた。
遥樹は会釈をする。
「あなたが植木屋さん?お若いですね」
老婆は全身に疲れを漂わせているような印象を与える人であった。
「樹医さんだよ」
老人が現れた。
「荒川さん。こんにちは」
遥樹は依頼主である老人に、微笑を向けた。
荒川が指し示した先は、遥樹の気になっていた樹である。
夏だというのに、樹に勢いがない。枝の半分に葉がついてはおらず、樹皮にも大きな亀裂が何箇所も入っている。
遥樹が幹に触ると、樹の意識が流れ込んできた。
樹医とは、その名の通り樹木の医者である。傷ついたり、病に冒された樹を救う技術に長けた者である。依頼で多いのは、歳経た記念樹や保存樹が工事や車の排気ガスの影響で弱ったための治療や、それらの樹の移動などである。
遥樹にとっては、それ以外にも別の意味がある。
樹医と呪医。文字で表すとはっきりと違うが、同じ音である。遥樹の中では、その二つは切り離せないものである。
遥樹は、樹の言葉が分かる。言葉が分かるというよりも、樹の意識を感じ取ることができると言った方が正しいのかも知れない。
遥樹が樹の意識を感じ取ることができるのは、歳経た樹だけである。歳経た樹は、その中に意識を蓄えている。発芽したその時から、ゆっくりと蓄えていくのである。
樹々は動けないが、植物、動物、そしてこの世のものではない周囲の声をよく聴いている。それらも、樹を通して遥樹は感じ取ることができる。
目の前の楡の木は、邪悪な存在を抱えるようにして、守っていた。その邪悪さは、樹の生命力が弱ってきたことによって外に漏れ出し、周囲にまで悪影響を与えている。
遥樹はふと気になったことを、背後にいる老人を振り返らずに聞く。
「荒川さん。奥さんは御気分がすぐれないのですか?」
荒川の視線が、妻に向けられた。
「今日は体調が良い方です。眩暈や吐気が酷いのですが、医者によると精神的なことが原因だろうということです」
荒川夫人は、縁側に座って遥樹たちを見ている。
遥樹は楡の木の幹から手を離して、荒川を見た。
「任せてください。この樹は必ず元気にしてみせます」
遥樹には楡の木を通して、荒川の意識が感じられた。荒川はこの樹を大切にしている。
この家に暗い影を落としているのは、この樹が抱えている邪悪な存在である。しかし、樹が生命力を取り戻せば、邪悪な存在は抑えられると思われた。
遥樹は、門の外に置いてある車に道具を取りに行った。
(樹たちが、ざわついているな…)
遥樹は、荒川家の庭の樹々たちが、警戒感を向けている方へ目を向ける。
そこには壮年の男が立っていた。頭髪の半分ほどが白髪になっているが、顔の艶は良い。眉間に深く入っている皺が、かなり目立つ。
その男は遥樹の方を見ていたらしく、遥樹の視線を避けるように顔の向きを突然変えた。
遥樹は、脚立を抱え、剪定鋏、鋸などの道具類が入れてあるベルトを腰に巻き、肥料などの薬品類が入った袋を背に負って、再び楡の木の下に立った。
荒川が、樹を見上げている遥樹の横に立つ。
「治療できる枝は残しますが、枯れている枝は落として負担を減らします。そして、幹の傷は保護をして、これ以上広がらないようにします。何か病気になっているというわけではないので、処置をした後に必要な肥料を与えてあげれば、この樹はまだまだ長生きしますよ」
作業を始めてすぐに、汗が噴き出してきた。背中を汗の玉が流れ落ちる。
そんなことに気が付かないほど、遥樹は作業に集中していた。樹の意識を感じ取りながら、枝を切り、薬を塗り、根の様子を確かめていく。
「そろそろ一服しませんか?」
荒川夫人が、縁側から遥樹を呼んだ。
「ありがとうございます」
遥樹は時計を見た。二時間近くも全く休憩を入れずに、作業に没頭していた。軍手を外し、タオルで顔や腕の汗を拭いながら荒川夫人の方へ歩いていく。
遥樹は縁側に置かれている盆の上から冷えた麦茶が入ったコップを受け取り、喉に流し込んだ。喉を流れる冷たさが心地良い。
荒川夫人は、楡の木を眩しそうな目で見上げている。
「何年前に植えられたのでしょうね?」
遥樹の言葉に、荒川夫人はすぐに答えた。
「五十年前です」
「えっ…もっと前のものだと思っていました」
遥樹は不思議に思った。百年近くが経っていると思える樹だった。高さは十メートルを越し、何より樹齢五十年にしては、幹が太すぎる。
「この家に私が嫁に来て五年後でしたから、間違いありません」
荒川夫人は、何か思い出すような視線を宙に投げている。そして、瞳の中に微かに涙が浮かび始めた。
「あの子が生きていたら、五十になるのですね」
遥樹は、枝を落とされて寂しくなった楡の木を見上げた。楡の木の中に存在している邪悪なものが、荒川夫人の感情に呼応するように声を上げていた。
作業が終ったのは日が沈む一時間ほど前で、体の中に疲労が溜まってきていた。しかし、不快な疲労ではない、今晩はよく眠れるだろう。ただ…楡の木の中の邪悪な意思を感じ続けていたため、精神的な疲労も大きい。
「しばらくしたら、もう一度見に来ます」
そう荒川に言いながら、会釈をした。
(何か気になる…あの樹は何かを訴えている…でも僕には、それをはっきりとした形で感じ取ることができない)