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次の獲物

 明るかった空に、重たそうな雲が勢力範囲を広げてきていた。

 バイクが止まった。

 マルスはブレーキペダルを、慌てて踏み込んだ。いつの間にか、ぼんやりとハンドルを握っていたのである。

 風也はバイクのシートから慎重に降りた。風也の頭には大きすぎるヘルメットを外して、木下に微笑を向ける。

「ありがとう。楽しかった」

 木下は風也に手を振ってから、マルスに手を上げた。バイクのエンジンが再び鼓動を始めた。

 すぐに木下の姿は見えなくなる。

 風也は車に乗り込む前に、マルスを見上げた。

 マルスは落し物が見つかったような嬉しさと、漠然とした不安を同時に感じていた。

「探しに行こう」

 何を、と問う必要はなかった。問うことは、自分の心に嘘をつくことだった。

 マルスはゆっくりと頷いた。その目は、すでに次の犠牲者の姿を求めていた。

 だが、獲物を指示するのは風也である。風也にその決定権は委ねられている。誰が決めたことでもない。しかし、それは事実であり、マルスが求めたことでもあった。

 マルスはゆっくりと車を走らせた。

 風也は助手席側の窓から、外に視線を投げている。

 獲物が見つかった。

 その獲物は、河川敷に一人で立っていた。手には一本の細い枝を持ち、瞳には孤独を持っていた。その孤独は風也を惹きつける。

「車を止めて…」

 堤防の上の道で、マルスはブレーキを緩く踏んだ。車速がゼロになるまでの時間が長い。

 風也はマルスに冷たい視線を向けてから、車を降りる。

 カサリと乾いた音に、少年は振り返った。

 そこには、自分と同い年ぐらいの少年が立っていた。そして、自分の体と顔が強張るのをはっきりと感じた。それは珍しい感覚ではなくて、いつのまにか馴染んでしまった感覚であった。同級生を見ると、いつも広がってくるこの感覚。

 風也は無言の少年に、微笑を向けた。

 少年はその表情の意味を思い出すのに、数秒の時を要した。同級生だけでなく、両親の微笑さえ、少年は思い出すことができなかった。

「何年生?」

「…四年生」

「僕と同じだね」

 風也は少年を観察した。

 細い腕だった。細い足だった。それを強調させているのが、少年の背の高さだった。同級生より、頭一つ分は大きいと思われる。しかし、体重は同級生たちと、それほど変わらないだろう。不安げな表情と、落ち着かない目が、幼さを感じさせる。

「君は…」

 少年の不安を打ち消すように、風也は柔らかい微笑を再び浮かべた。

「僕は守山風也」

「僕は…勝原」

「下の名前は?」

「守」

 そう言った守の顔には、ぎこちない微笑が浮かんでいた。

「どこかに遊びに行こうよ。兄ちゃんが連れて行ってくれるよ」

 守は少し考えた。もう、帰宅する時間である。しかし、家に帰っても迎えてくれる人はいない。夕飯を冷蔵庫から取り出して、電子レンジで温めてから一人で食べるのである。

 両親は夜に帰ってきて、二人は顔を合わせることもなく別々の部屋で寝る。

 守は両親に聞こえるか聞こえないかというぐらいの小さな声で、寝る前の挨拶をしてベッドに入る。両親が挨拶を返してくれなくても、聞こえなかったのだと思うことにしている。それは、いつの間にか身に付けた習性だった。

「うん…」

 風也は守の手を引いて、土手を軽やかに登っていく。

 風也の指差した先には、マルスの運転する車がある。まだ陽が沈むまで少し時間があるはずだが、空に浮かんだ厚い雲が夜の訪れを早めている。

 守は車の窓に映るマルスの影に、表情を強張らせた。暗くなっていく空を背景にした車の中に蠢く影は、自分を連れ去る妖怪に見えた。

 河川敷の樹々が一斉に揺れた。風に揺らされたのではない。人の目が知覚できないほど、微かに動いたのである。

 守は次の瞬間には意識が痺れたようになって、マルスに対する恐怖感を忘れた。頭の中に何か別の意識が突然に現れて、自分の意識を動けないように雁字搦めにしてしまった。その別の意識は、人のもののように生々しくはなくて、透明な緑という印象だった。

 焦点が宙に浮き、立ち止まった守の手を風也は軽く引いた。強く引いたのであれば、そのまま動かなかったのかも知れないが、それは控えめな力だった。

 守は誘われるように、再び足を動かし始めた。例え酷いことが待っていたとしても、今の自分の状況よりも悪くはならないだろうと、この時は思えた。

 風也は後部座席に守と並んで座ると、ルームミラー越しにマルスを見た。

「行こう」

 車は、ゆっくりと走り始めた。

 守は風也が差し出す菓子袋の中に手を入れた。引き出した手の中にあるクッキーを、口の中に放り込む。甘さが広がっていく。その甘さよりも、風也の浮かべる微笑が守にとっては幸福感を与えるものだった。


 浅木は車を走らせ続けていた。

 遥樹が風也の気配を感じ取ってから時間は過ぎ、雲の合間から見える陽が山並みの向うに姿を隠そうとしていた。

 遥樹の顔には、はっきりと疲れが浮かんできている。

 周りに人家が少ない山間にいる間は、樹々たちを通して流れ込んでくる人の意識の圧力が弱かった。しかし田舎町ではあっても人が増えてくると、風也の気配を感じ取ろうと神経を尖らせている遥樹には、人の意識が重圧となって襲ってくる。

 頭の奥に沈殿してきた重いものを拡散させようと、人差し指で額をマッサージする。

「大丈夫か?少し休むか?」

 浅木は遥樹の返事が分かっているのに、労わるような言葉をかける自分に少し嫌悪感を覚えた。遥樹が疲れているのは、浅木にはしばらく前から分かっていたが、今の状況では遥樹だけが犯人逮捕に結びつく手掛かりである。

「大丈夫です」

 浅木は予想通りの答えを返してきた遥樹を横目で見る。

(この男に会ったことは、俺の価値観を変えるほどのものだったな)

 遥樹の力ということに関してもそうであるが、遥樹が自分の得にもならない、そして役目でもないはずの事件にある種の使命感を持って関わっていることが、浅木には不思議だった。例えば、浅木が仕事を終えての帰り道に酒を飲んで車の運転席に乗り込もうとする者を見かけたとしても、自分の管轄ではないと通り過ぎてしまうだろう。

 しかし、今は少し違ってきているような気がする。実際、遥樹と共に捜査をするために、強引に休暇を取った。今までの自分なら考えられない行動である。もしこれで事件を解決することができたとしても、職場では認められない功績である。

 遥樹は誰かに肩を叩かれたように、首を急に曲げた。

「どうした?」

 浅木の問いに答える代わりに、遥樹は真剣な視線を向けた。しばらくの沈黙の後に、ある方向を指差す。

「いました。風也君です。近くです。急いで!」

 遥樹にしては珍しく、焦りのみえる声である。

 浅木はハンドルを回した。タイヤが軋む音が車内に響き渡る。

 遥樹の膝の上から、何かが転がり落ちた。

「あっ…」

 遥樹はしっかりと、そして柔らかくそれを抱え込んだ。

 松の針のような葉が掌に軽く刺さる。小さな痛みと共に、意識の中に映像が浮かんできた。

 不安げな表情を浮かべた少年が、目に涙を溜めて立っている。その少年は風也であるが、今の風也の年齢よりもかなり幼くて五歳ぐらいに見える。

 燃え立つような新緑の中に立っている風也は、突然に両耳を塞いで走り出した。パニック状態になっているらしいが、無意識に樹を避けて走っている。

 そこへ風也の祖父が現れて、幼い孫を抱き止めた。

 風也は少しの間、背中を仰け反らせるようにして逃げようとしたが、祖父がさらに強く抱き締めた。

 周りの樹の葉の擦れ合う気配が、渦を巻くように二人を隠した。

 そして、風也は静かに祖父を見つめた。

(同じだ…僕と)

 遥樹にも同じような経験があった。樹を通して、人の悪意が自分の中に入り込んでくるのである。

 樹の意識はいつも優しい、そして解放されている。人の悪意さえも包み込んでしまう。

 その時は、恨みを持って死んだ人の意識が樹を通して遥樹の中に入り込んでしまった。

 恨みや悪意の程度にもよるが、時間が経てば樹は自分の中に包み込んだそれらを浄化してしまう。しかし強すぎるものは、樹の中に長く留まる。そんな樹は時に、別の悪意を増幅する。樹の意識が直接的に入り込んできてしまう者にとっては、あまりにも危険な存在である。

 遥樹には祖父がいた。完全に成長するまでは見届けることができかったにせよ、自分を守るために必要な最低限のことは教えてくれた。遥樹は力を制御する方法を習うことができた。あまりにも遥樹の力が強くて、完全に制御することは難しいが…。

 だが風也の祖父には、その時間が残されていなかった。

 風也の祖父は、風也の力を厳重に封印した。そして、それが風也の祖父の残り僅かだった余命を削り取った。

 その時の風也の祖父の不安や慈しみ、無念さが混じりあった感情が、遥樹の中に押し寄せてきた。

 遥樹は遠くで人の声を聞いたような気がして、顔を上げた。

「どっちだ?」

 浅木の声が、急に耳の中に飛び込んできた。

(ここは、どこだ?)

 遥樹は自分の置かれている状況を、すぐには理解できなかった。

「大丈夫か?」

 痛みに耐えているように見える遥樹の表情を見て、浅木は車を路肩に止めた。ハザードランプの音が車内に反響し、暗くなりかけている外の風景に、オレンジ色の明滅が映りこんでいる。

 遥樹は渇いている喉の奥を、飲み込んだ唾で湿らせた。

「車を出して下さい」

 浅木は二股に分かれている道を右に曲がった。それは遥樹の指先が、しっかりと指す方向だった。


「すみません」

 茜はようやく自分がいる場所をはっきりと認識した。最初に道を尋ねたのは初老の婦人だった。地図を見て、しばらく考え込んで自信なさそうに示した場所は間違っていた。

 そして今聞いたのは、畑仕事をしている中年の男性だった。日焼けした顔が振り向く前に、すぐ近くに止まっている軽四トラックを確認していた。

(車を運転している人なら大丈夫…)

 茜がようやく自分のいる場所に確信を持てたのは、それからさらに十数分後であった。

 茜の中に不安が蓄積していた。あまりにも漠然とした不安であったが、遥樹のところに行かなければ解消されないことだけは、はっきりとしている。

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