検問
寝息の音が車内に響いていた。優しい陽光が、フロントガラス越しに車内に届いている。
朝から車を走らせ続けていて、ふと助手席を見ると風也が寝ていた。マルスは一眠りするつもりで、交通量がほとんどない道の端に車を止めた。
マルスは助手席に寝ている風也の寝顔を、自分も運転席のシートを後ろに倒した状態で横から見つめている。あまりにも無防備な寝顔である。
ゆっくりと体を起こした。
(この子は何者なんだ…)
風也が達弥ではないことは分かっている。少なくとも、今は分かっている。しかし風也の目に正面から見据えられると、風也が自分のことを達弥だと言っていることを、疑うことさえもできなくなってしまう。それに関する思考が停止してしまう。
マルスの右手が、ゆっくりと動き始める。上半身を捻り、さらに動かす。その先には、風也の首があった。
シートが軋む。マルスの手が止まる。
風也の寝息の音が、静寂の中に沁み込んでいく。
再び、マルスの手が動き始める。風也の首まであと十センチ。手に鼻息がかかる。反射的に手が痙攣したように動く。
マルスは少し引いてしまった手を、再び動かし始めた。
大きく動いていた風也の胸が止まった。
瞼が開き、奥から瞳が現れた。すでに前から見つめられていたように、焦点はすでにマルスの顔の上に結ばれている。
静かな目だった。何の感情も現れてない。
それがマルスにとっては、深く抉られるような恐怖を与えた。
数秒の時間が凝固したように、流れる速度を失った。
強張ってしまい、自分のものではないような感じになった右腕を、自分の体に引き寄せる。
「兄ちゃん。行こうか?」
シートを起こしながら、そう言った風也の視線はフロントガラスの先に向けられている。その声には怒りは含まれていない。代わりに刺すような冷酷さが含まれている。
マルスは激しさを増した鼓動を鎮めるために、息を大きく吸う。静かに…。
車が動き出すと、風也はマルスを見て言う。
「お腹が減ったね」
マルスは運転しながら、後部座席を素早く振り向く。そこにはほとんど中身のなくなったレジ袋が一つ転がっている。今朝に、菓子パンを一つずつ食べたのが最後だった。
「何か食べに行く?」
風也は頷いて、微笑を浮かべる。
マルスは幹線道路の方向に車を向けた。
小さな食堂が見えてきたのは、十五分ほどが過ぎてからであった。店の前には、一台も車が止まっていない。午後二時を過ぎた店内には、ゆったりとした雰囲気が流れていた。
店に入ると、店の奥の方の席でタバコをふかしている老人が、少し眠そうな目を向けた。
無言で立って、グラスに水を入れて戻ってくる。
「何にする?」
丁寧とは言い難い接客だが、年の功と、どこか愛嬌のある声で不快な感じはない。
手書きで無造作に書かれたメニューを、机の上に広げ、注文をした。
店の主人が離れていくと、テレビの音声が耳に入ってくる。首を右に捻り、画面に焦点を合わせる。
風也はすでに視線を向けていた。
ニュース番組が流れている。
五年前に起った連続児童殺人事件の裁判の結果を知らせるものだった。判決は死刑。高等裁判所での判決に、弁護団は控訴の準備をしているとのコメントを出している。
「人を殺せば、やっぱり死刑だよね?」
風也の目には、何の感情も浮かんでいない。
「そうだね…」
マルスは昨晩の感触を思い出した。掌にその時感じた熱と共に残っている。
嫌悪感を否めない感触だった。しかし、同時に何かが満たされていくような感触だった。
再び、ぽつりと風也がつぶやく。
「死刑か…」
風也の言葉に、マルスは突然に恐怖を覚えた。体の中心から熱が急速に奪われていくような感覚に捕らわれた。
震え出した右腕を左手で押さえた。その左腕も震えている。その震えが全身に広がる前に、風也の右手がマルスの右手にそっと触れた。
視線を合わせたマルスの目から、不安の色が薄らいだ。
テレビから別のニュースが伝えられる。二人のよく知っている事件である。二人の魂の奥にまで刻まれた事件である。
「お待ちどうさま」
店主の声に、マルスの背中が痙攣する。
風也は目の前に並んだ二つの親子丼の一方を、自分の方に引き寄せる。
「兄ちゃん」
マルスはその声に強張った表情を少し緩めた。風也の手から割箸を受け取って、丼の中身を口に運ぶ。
味はほとんど感じられない。意識の大半が、テレビに向けられている。それなのに、画面に視線を向けることができない。
テレビ画面には、少女の遺体が発見された現場の様子が流れている。
マルスとは対照的に、風也は視線をテレビから動かさない。
「もう、時間がないのかな…」
風也の言葉に、マルスが反応する。
「何の時間?」
風也はテレビを、そのまま見続けている。
マルスがもう一度聞こうとしたとき、店のドアガラスに人影が映った。店に入ってきたのは、フルフェイスのヘルメットを脇に抱えた若い男である。
革のジャンパーに、革の手袋、そしてライダー用のブーツがバイク乗りであることを強く主張している。マルスよりかなり高い身長に、マルスの倍近くもあるような広い肩幅をもつ頑健そうな体格の男である。陽に焼けた顔や、短く刈り込んだ髪も、マルスとは対照的な、それでいてマルスの名前の由来になったローマ神話に出てくる軍神マルスのイメージと共通する印象の若者である。
カツ丼を注文して、テレビに視線を向けている若者に、風也がいつの間にか近寄っていた。
「あれは、お兄さんのバイク?」
風也は窓の外に置いてある、黒の大型バイクを見ている。
「そうだ。バイク好きか?」
振り返った風也に、若者は白い歯を覗かせた。
「乗りたいな」
二十二分後。食事を終えた三人は、食堂を出た。
風也はマルスの運転する車に向わずに、若者―木下と名乗った―のバイクの後ろに跨った。
風也の背中を見ながら、マルスは後ろを走っていく。風也の背中の向うには、大きな木下の背中がある。
山道を抜けて、民家の数が増えてくると、マルスは距離をとった。時々、風也の背中が見えなくなる。
間に車が、二台続いて入り込んできた。
「周りに家が増えてきたら、間を置いてついてきて。それから…」
風也が木下のバイクに乗る前に、そう言ったのである。そして、その理由も言っていた。
(言っていたとおりになったな)
警察の検問が、前方に見えてきた。
大きな検問ではない。二台のパトカーと、三人の警察官がいるだけのものである。
バイクが止められた。
「お巡りさん。何かあったの?」
木下が陽気な声で聞く。
「殺人事件があったんだ。ところで君は、どこに行くんだ?」
木下以上に日焼けした顔の太った四十歳前後に見える警官が、タンデムシートの風也に少し目を向けた。
「天気が良いから、ツーリングしているんですよ。目的の場所はないけど、東の方に行こうかと思っています」
ヘルメットを外した木下の顔を見て、警官は警戒を解いた。長年の経験から、この男は子供を殺すような人間とは見えない。それに容疑者の特徴とあまりにも違う。
「そうか。気を付けて運転して下さい。ご協力感謝します」
最後の言葉と同時に、小さく敬礼して、先に進むように促した。後ろには数台の車が待っている。
バイクが通り過ぎる時、若者の背中をしっかりと持った子供の横顔が見えた。先程のどことなく不安そうな表情―子供が知らない人に向けるよくある表情―とは違って、不敵な表情に見えた。それは、その年齢の子供には、あまりにも相応しくないものである。
警官は何か取り返しのつかない間違いをしてしまったような不安を微かに感じたが、その正体は分からない。
そこから三台後ろの車には、マルスの乗っていた。喉が渇いている。掌に汗が滲み出て、ハンドルにべっとりと付いている。脇の下にも汗が流れている。
だが、それを認識できる自分がいた。そして、脳裏に浮かぶのは、風也の冷たく見張っているような視線だった。
マルスは内心の動揺を押し殺しながら、車を警官の前に進めた。窓を覗き込んだ警官に向って、微笑をつくろうとして止めた。口元に力が入りすぎて、引きつったようになってしまいそうになったからである。
「何の検問ですか?」
マルスは何の感情も顔に出さずに、返事を待っている。
警官が後部座席に目を向ける。
その視線の先を、マルスも見る。
そこには、リボンが一本落ちていた。明るい黄色のリボンは無造作にコンビニエンスストアの袋の間にあった。
(しまった!)
美奈が髪を結んでいたリボンであった。風也が美奈からもらったものである。風也は大事そうに、ポケットに入れていたはずである。
なぜ後部座席にリボンがあるのかと考えた時、風也の冷たい視線が脳裏に浮かんだ。
(まさか…わざと置いた?)
警官が少しでも不審に思って、車のナンバーでも調べれば盗難車であることが分かって、すぐに逮捕される。
警官が急に前屈みになっていた腰を伸ばした。
検問のすぐ手前で、急にUターンをし、タイヤの軋み音がするほどの勢いで加速していった車がいた。
マルスは、ドアミラーから後ろを見て、その銀色のRV車の後部を見る。
「追いかけろ!」
警官はマルスの車から離れていく。
三人の警官のうち、二人がパトカーに乗り込んで走り出す。一人残った警官を、マルスが運転席の窓から顔を出して見上げる。
「行ってもいいですか?」
警官は声の主に今気付いたように、視線を急激に動かした。
「ああ…どうぞ」
マルスは、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
二人は警察が張った網を幸運という道具を用いて、すり抜けた。
それとも、風也が遠くから見つめていた車の運転手が急に怯えたような様子になって、ハンドルを回し、アクセルを踏み込んだことは偶然ではないのだろうか。そして、その時に街路樹たちが風もないのにざわめいていたことも…。
遥樹は、意識の中に微かに響いてきたものに神経を向けていた。樹々が発した苦鳴のように遥樹には感じられたが、はっきりとはしない。
「どうかしたのか?」
急に硬直したようになった遥樹の様子に気付いて、浅木が車を道の脇に止める。
浅木は再び声をかけようとして、遥樹の掌に制止された。
ハザードランプの点滅音が、車内に充満する。
遥樹はドアを開けて、外に出た。松の盆栽はシートの上に置いている。
冬の柔らかい陽光が顔に当たる。車道から田圃の中を通る畦道に下り、歩いていく。茶色が支配する田圃にも、少しだが雑草の緑が色を差している。果樹が十数本ほど植えられているところまで来て、立ち止まる。
遥樹は小さな声に耳を傾けた。言葉ではない。樹々の発する声である。
遥樹は静かに立っている。目を半眼にして、微かに顔を上に向けている。
浅木は車の横に立って、遥樹を眺めている。
数分、それとも十数分が過ぎた。
遥樹が振り返った。その顔には確信が浮かんでいた。
「何か分かったのか?」
近づいてきた遥樹に、浅木は問うた。
「行きましょう」
遥樹はしっかりと、視線を一方に向けた。
カーナビゲーションの指示に従って走ってきたが、データが古かったのか、目的地と違う場所に向っていたようであった。
すでに浅木から教えられた場所に到着しているはずだった。
「ここはどこ?」
自分が走っていると思っていた道と、目の前にある標識が示す道は同じ県道でも数字が違っている。
地図を引っ張り出してきて、広げた。
「新しい道が造られたのね」
カーナビゲーションと地図で、交差点の名前も違いがあった。
茜は再び、車を走らせ始めた。




