追跡
昨夜遅くに、雪が降ったようである。
地面にうっすらと、白い痕跡が残っている。道路などの上は、すでにほとんど解けていて、交通の障害にはなっていない。
昨晩は茜に引きずられるように酒を飲んでしまった。茜も酒が強い方ではなく、カクテルを二杯も飲めば全身が真っ赤に染まるが、遥樹はさらに酒に弱い。
それでも、そのおかげで昨晩はすぐに眠りにつくことができた。毎晩、ざわついていた心が酔いのうねりの中で静かに感じられた。
目が覚めた時には、八時を過ぎていた。毎朝六時には起きる遥樹にしてはかなりの寝坊であるが、店の開店時間にはどうにか間に合った。
チャイムが鳴った。
裏口に立っていたのは、厳しい顔をした中年の男だった。
「浅木さん…どうしたのですか?」
浅木は少し開いたドアを開けて、一歩入ってきた。
「風也君の居場所を感じることはできないか?」
そう言った顔には、切実さが刻み込まれていた。
「何かあったのですね…」
浅木は外に目を配ってから、ドアを閉めた。
「風也君を連れ去った男が、少女を殺害した可能性が出てきた」
遥樹は浅木の言葉に、自分の周りの空気が消滅したかのような息苦しさを感じた。
怖れていたことだった。マルスと風也が山道で車に乗っているのを見たときから、心のどこかで、こんな結果を予想していた。今思えば、それに気が付かないように心の視線を逸らしていた。
返事のない遥樹の顔を見ながら、浅木は言う。
「入っていいか?」
遥樹は喉の奥に、唾を大きく飲み込んだ。
「…どうぞ」
浅木が食卓の椅子に腰掛けると、遥樹も座った。
「今朝に、小学三年生の女子児童の遺体が発見された。犯人の目撃者がいて、その特徴から風也君を誘拐した犯人と同じ人物である可能性がある」
遥樹の視線は、店の方に向いていた。
「風也君は、一緒だったのですね?」
「そうだ。しかも目撃者の証言によると、風也君が…」
遥樹の視線の先には、以前とは枝の様子が違っている松の盆栽があった。
「風也君が犯人に協力しているのですね?」
「そうとは決まっていない。目撃者の話から、犯人の車に被害者の少女を乗せた少年の特徴が風也君と一致しているだけだ。それは風也君ではないかも知れないし、犯人に脅されていたということも考えられる」
「でも…目撃者は、そうは言っていないのですね?」
浅木は静かに言葉を発している遥樹に、微かな恐怖を覚えながら、ゆっくりと頷いた。自分の考えを読まれているような気がする。
「一緒に行ってくれないか?」
「分かりました。行きます」
遥樹は文字を書き込んだ紙を机の上に置き、少し不安そうな微笑を浮かべた。紙には浅木と出かけるとだけ、簡単に書かれている。
「どうした?」
「怒られるかなと思っただけです」
誰にと聞く前に、茜の顔が浮かんだ。その顔は浅木に、どこか迷惑そうな視線を向けている。
五分後には、遥樹は浅木の車の助手席に乗っていた。その膝の上には、盆栽が乗っている。
車の燃料計の目盛りが一つ減った頃、突然に何台もの車が止まっているのが目に入った。
浅木に続いて、遥樹も車を降りる。
(樹たちが、不安そうな声を出している)
その声は遥樹にしか聞こえない声である。声というよりも、感情の波動と言う方が近いのかも知れない。
普段は車が時折通るだけの静かなところである。そこへ突然、人が大勢集まってきていた。そして何より、人の命が少し前に奪われたのである。その時に発せられた激しい心の叫びを樹々は感じ取り、その動揺が今も治まらない。
「浅木!誘拐犯の居所を前に探し当てたというのは、この人か?」
五十歳代前半の恰幅の良い男が、遥樹の全身を探るように見ている。日焼けした眉間に深く刻まれた皺が、顔の印象を厳ついものにしている。
「木神さんです」
木神の会釈に年配の刑事も会釈を返した。そして、浅木の方へ向いて、その肩を力を込めて叩いた。
「課長に怒鳴られないようにしろよ」
この言葉で、浅木の職場における現在の立場が分かった。遥樹の力のような不確定と思われるものを当てにした捜査は、認められていない。
「浅木さん。後は僕一人で大丈夫です。何か分かったことがあれば連絡します」
そう言って遥樹は、浅木の側を離れようとした。
「ちょっと待っていてくれ」
浅木は携帯電話を取り出して、話し始めた。最初は何かを頼んでいるような口調だったが、少しすると、尊敬語を使っていても突き放すような様子になって電話を切った。
「行こうか」
浅木は、遥樹の前に立って歩き始めた。その先には浅木の車がある。
「仕事は、どうするのですか?」
浅木は振り向いた。その口元には、自嘲気味な苦笑が浮かんでいる。
「大丈夫。しばらくは休みになったから、あんたに付き合うよ」
浅木は強引に休暇を取得したのである。課長は当然のごとく文句を言ったが、今まで真面目に勤めてきた浅木の変貌に何か理由があると考えたのか、遂には休暇を認めた。
「こちらに行きましょう」
遥樹は樹々のざわめきが広がっている方向を示した。
浅木は遥樹の感覚を邪魔しないように、静かに車を走らせる。
警察はその現場を中心に、緊急配備を敷いている。被害者の死亡推定時間から考えて、犯人はそれほど遠くには行っていない可能性が高い。その包囲網に犯人がかかる可能性もあるが、浅木には遥樹といる方が犯人を見つけることができると思っていた。
(いつから俺は、非科学的な考え方に変わったんだ?俺は理論的な人間のはずだが…)
茜は手にサツマイモが入った袋を提げている。遥樹は午前十時に休憩を取るので、それに合わせて焼き芋を作ろうと思って、木神園芸店までやってきた。
そこで最初に目に入ったのが、店のシャッターにしっかりと貼られている紙だった。
「臨時休業します?どういうことだ?」
裏口の鍵を、いつもの隠し場所から出して開ける。
店の中を見回して、食卓の上に置かれたメモを発見した。次に風也から預かっている松の盆栽がないことを確認すると、携帯電話を取り出した。そして小さな引き出しを開け、その中から名刺を取り出して、走り書きされている番号を押した。
「浅木さん?そこに遥樹がいるでしょ?代わってもらえませんか?」
浅木は電話の相手が誰であるか分からないようであったが、さらに幾つかの言葉を交わすとすぐに思い出した。
茜は電話に出た遥樹に、言葉を投げつける。
「遥樹。今、どこにいるの?」
遥樹は自分の現在地を把握していない。浅木にここまで連れてこられる間、風也のことや膝の上に抱えた盆栽の奥底にいる風也の祖父の意識の断片のことに、心を囚われていた。
「よく分からない…」
茜は心配が高じて、苛立ちを覚え始めていた。声に棘が混じる。
「浅木さんに代わって!」
遥樹はその言葉に小さな反発を覚えながらも、茜の自分を案じている気持ちに申し訳なさを感じた。
浅木は茜に自分たちがいる場所の説明を始めている。
「茜は、ここに来るのでしょうか?」
携帯電話を切ったままの姿勢で、浅木は首だけを、遥樹に向けた。
「おそらく来るだろうな。今すぐにでも飛び出してきそうな雰囲気だった」
遥樹は小さく溜息を吐いた。茜には来てもらいたくはなかった。危険なことも、当然のごとくあるだろう。そして、風也の変貌振りを知ってもらいたくはなかった。茜は風也をかわいがっていたのである。
「早く車を出して下さい」
遥樹の声に、浅木はシフトレバーを入れる。
「何か分かったのか?」
遥樹は首を振る。
(茜を巻き込むわけにはいかない…)
早くここを離れてしまいたかった。
茜は浅木から聞いた場所を地図で確認し、車のキーを握り締めた。
エンジンをスタートさせると、心地良い振動が伝わってくる。二年前に買ったスポーツタイプの中古車である。アクセルを踏み込むと、シートに押し付けられる感覚が伝わってきた。
茜は少し荒々しく見える運転で、遥樹のいる場所までの距離を急速に縮めていく。




