逆支配
風也は、マルスの笑い声で目を覚ました。
マルスは窓から身を乗り出して、外を見ている。窓の外から差し込んでいる赤い光が、マルスの姿を窓枠に固定して、一枚の影絵としている。
「もっと燃えろ!」
そう呟くと、再び笑い声を発する。体の奥から湧き上がってくるものを堪えきれずに、外に吐き出してしまうような暗い笑いである。
風也は立ち上がって、マルスがいるのとは別の窓の外を凝視した。
ぞくり、と体の底が冷えたような感覚が襲ってきた。焚き火や暖炉の火から伝わってくる暖かいものとは、全く違った感覚である。あまりにも大きな炎はその本来持っている熱よりも、恐怖の冷たさが感じられるのであろうか。
マルスはふと思い付いたように、風也の方を見た。
「風也君。ここで待っているんだよ。僕は火事の様子を少し見に行ってくる。すぐに戻ってくるからね…」
風也はこくりと頷いた。表情の消えたマルスの顔に視線を留めることができず、すぐに目を逸らしてしまう。
マルスがドアに鍵をかけて出て行く音がした。しばらく、風也は耳を澄ましたまま、周りの音を聞いていた。
再び、窓の外に目を向ける。
炎はかなり近くに感じられた。しかし、見えているのは隣の山の炎であるので、実際はそれほど近くない。
風也は炎を見つめていると、不安が急激に膨らんでくるのを感じた。そして、同時にここから逃げ出したいという衝動が大きくなってくる。
しかし、逃げ出す踏ん切りがつかない。マルスの目に見えない鎖が、風也の精神を縛っている。
その鎖は、一度マルスから逃げ出したが結局捕まってしまった時にかけられた。あの時のマルスの怒りを押し殺した顔が、浮かんでくる。
(もう二度と、逃げ出さないと誓ってくれるね?)
マルスの言った言葉が、風也の中でこだまする。恐怖が蘇ってくる。
鼻腔に、焦げ臭い空気が入り込んできた。いつの間にか、風向きが変わっているようである。
窓の外を見る。このログハウスは床を上げているため、窓は地面から三メートル以上の高さになっている。
炎への恐怖が、風也を動かした。
風也は椅子を窓の側まで持ってきて、それに上った。心臓の鼓動が少し治まるまで、何度も息を吸って、吐いた。高さへの恐怖とマルスからの呪縛を、どうにか断ち切る。
窓枠に手をかけて体を下ろしていく。腕だけが自分の体重を支えている。後は手を離せば、足は地面に達する。
息を吸った。
手を離そうとした。
「どこに行く?」
マルスの声が先か、手首を強く握られるのが先か分からなかったが、全身に走り抜けた冷たさは、はっきりと感じた。
風也の体が、一気に窓枠を再び通る。
マルスの細い体に、どうしてそんな力が潜んでいたのかと不思議に思うほど強い力で引き上げられた。部屋の床に肘と膝が激しく当たって、全身を麻痺させるような痛みに耐えていると、髪の毛が烈しく上に引かれた。
「どこに行こうとしていたの?」
静かな、あまりにも静かな口調だった。
上を向いた風也の顔のすぐ前に、マルスの目があった。風也の喉の奥から、引き攣れたような意味不明の声が小さく漏れる。
歯が噛み合わない。歯が何度もぶつかり合って音を立てる。その震えが全身に広がるまで、数瞬だけを必要とした。
「どこに行くつもりだったの?」
マルスの声に、苛立ちが混じった。
風也は何か言わなければと痛切に感じ始めていたが、喉の奥に小さなボールが支えたように声が出てこない。
髪の毛を上に引っ張っていたマルスの手が、頭に叩きつけられた。
突然の衝撃に風也は反応することさえできずに、顔を床に烈しくぶつける。目の中で光が爆発して視界を白く染め、痛みというよりも、熱さが鼻を中心に顔全体に広がった。
「ごめんよ。手が離れてしまったね…」
マルスは風也の脇の下に手を入れて、そっと抱き起こした。まるで、大切な恋人を抱き上げるように…。
風也は鼻から熱い液体が流れ出てきているのを、ぼんやりと感じていた。目から涙が次々と流れ出てきて、視界を不明確なものにした。
マルスの顔には微笑が浮かんでいる。しかし、その微笑は口元だけに張り付いているもので、目は澱んだ色を湛えている。
「うっ…うわーーー」
風也は再び湧き上がってきた恐怖に堪えることができずに、体中でマルスに対する拒絶反応を爆発させた。陸に釣り上げられた魚が跳ねまわるように、背中を反らせ、前に折れ、腕を振り、足を蹴り上げる。
マルスは呆気にとられたように体を風也から離し、立ち上がりながら一歩下がった。風也が這うようにして自分から遠ざかっている姿を一瞬だけ見つめてから、近づいていく。
「お仕置きだね…」
口の中で呟くような声を切欠に、マルスの足は力強く振られた。マルスの足の甲が、風也の二の腕に当たる。反射的に腕を折り曲げると、マルスの足は次に横腹に当たった。
風也は奥歯を食い縛って耐えていたが、すぐに喉の奥から嗚咽が込み上げてきた。体を丸めて、暴風と化したマルスが沈静化するのをひたすらに待った。
「なんで俺の言うことを聞かないんだ!そんなに俺を馬鹿にしたいのか!」
痛みが飽和状態に達し、意識が薄れていくと共に痛みが消滅していく。風也の閉じた瞳の裏に、墨を水面に無造作に流したような黒い影が映り、それが獣の目を形作った。
風也の意識は深く沈み、鎖で固定されたように動きを止められた。
マルスの動きが止まった。肩で息をしながら、風也を見ている。その目には狂気の色が薄れ、表情は今にも泣き出しそうなものに変わっていた。そして、懐に手を入れて、ナイフを取り出そうとした。
風也は顔を隠していた両腕の間から目だけを覗かせ、マルスを見上げる。
「兄ちゃん。また僕を殺すの?」
マルスの目が見開かれた。
「何を言っている?」
風也の声が、少し大きくなる。
「達弥だよ。兄ちゃんが昔、見殺しにした弟の達弥だよ。忘れたの?忘れられるの?」
マルスは一歩下がった。黒目が忙しく動き回っている。
「なぜ弟の名前を知っている?」
「僕を殺すの?」
「答えるんだ!」
マルスの声が掠れていた。
「また…殺すんだね」
風也は、ゆっくりと立ち上がっていた。哀しげな上目遣いの顔を、マルスに見せている。
「俺は達弥を殺してなんかいない」
「でも同じでしょ?救うことができたのに、それをしなかった」
「どうすれば良かったと言うんだ!」
「それは兄ちゃんが知っているでしょ?声をかけてくれれば良かったんだよ。それだけで、僕は…」
ログハウスの周囲の樹々が、風也の言葉に同調するように梢を揺らした。
マルスの思考を何かが、停止させた。
父親から少し離れて、下を向きながら歩いている弟の姿、車にはねられて死ぬ少し前の姿が浮かんできて、目の前の風也の姿と融合し始める。
マルスはうな垂れ、床に座り込んだ。
風也の顔に、微笑が浮かんでいた。それは風也には似つかわしくない表情であると、風也を知っている人は思うだろう。その微笑の裏には、はっきりと邪悪な存在がある。
風也の口から、一本の紅い糸が流れ出てきた。それが床に小さな血の池を作る。
マルスはその紅い糸を視線で追い、風也の唇の端から流れ出ている血を見て、言葉を発する。
「ごめん。許してくれ。兄ちゃんが悪かった…」
この瞬間、マルスと風也の立場は逆転していた。支配する者と支配される者が、完全に入れ替わった。
しかし、新たな支配者は風也ではなかった。風也の姿を持った別の存在である。
「もちろん許してあげるよ。兄弟でしょ?」
マルスは小刻みに何度も頷いた。そして、その顔には安堵の色が濃く現れていた。今まで緊張を続けていた精神は、その重圧から解放され、自ら風也の呪縛の中に入り込んでいく。深く、さらに深く…。
焦げ臭い風が、部屋の中に舞い込んできた。
風也は窓の外に視線を向ける。風向きが変わったのか、向かいの山の輪郭がぼやけるほどの煙が小屋の外に流れている。
「兄ちゃん。ここは危ないよ。すぐに出て行こう」
マルスは、風也の言葉に躊躇なく頷いた。
風也はマルスの暴力によって、酷く傷ついているはずの体を、呻き声一つ出さずに戸口に向わせた。




