依頼人
梅雨の晴れ間。頭上には雨をもたらす厚い雲は一片もなく、高い雲しか見えない。
温かい風が、木々の間をゆっくりと奔り抜けていた。
その風の中に、赤毛の女性が立っていた。モデルのようなスラリとした体の上に、赤毛を肩まで伸ばした小さな顔が乗っている。顔の造作は整っているが、表情が
活発な少年という印象を与えている。女性的な印象を与えているのは、顔の部品の中では少し厚めの唇ぐらいだろうか。
檜山茜。それが名前である。
「もうすぐ二年になるんだね」
茜が手にスコップを持って、窓から覗き込んだ。茜の目前にあるビニールハウスの中には、浅黒く日焼けした顔の青年がいた。
「何が?」
そう言って、手に小さな植木鉢を持って立ち上がった。
その青年の表情は柔らかい。淡いと言った方が合っているのかも知れない。
茜は、少し胸を反らせるように青年の顔を見上げた。
茜は女性にしては長身で、百七十八センチもある。しかし、目の前の青年はさらに長身で、百九十五センチある。かなり細身なので、さらに背が高く、そして手足が長く見える。
「お祖父さんが亡くなって…いや、遥樹がこの店をやりはじめてからだよ」
遥樹と呼ばれた青年は、持っていた植木鉢を茜に手渡した。
「これを店の方に持っていって」
祖父の園芸店を継いだのは、二年前である。山を背後に持つ小さな店。その裏の僅かばかりの敷地の端には、小さな温室が建てられている。店の正面の軒下に、看板が吊るしてある。それには欅の板に墨で“木神園芸店”と書かれている。何の捻りもない店名だが、遥樹は気に入っている。
山を背後にしたその庭は、狭苦しさを感じないで済むが、裏山は他人の土地である。温室をもう少し大きくしたいが、それを建てる余裕はない。金銭的にも。
両親は十一年前から海外で暮らしている。銀行に勤める父親がロンドンに転勤になり、中学生になっていた遥樹を祖父に預けて海外生活を始めた。そして今も、年に数度だけ日本に帰ってくるという生活を続けている。
遥樹は大学を卒業後、地元の信用金庫に勤めていたが、祖父が死んで一月後には園芸店に転職してしまった。
両親をはじめ、周りの人のほとんどが反対したが、茜だけは賛成してくれた。
「天職だね。神様はあんたが樹の世話をするために、その馬鹿でかい体をくれたんだよ。おかげで高い枝の剪定も楽だろ?」
遥樹は中学生になった頃は、クラスで一番背が低かったが、卒業する頃には、茜と同じぐらいの身長になっていた。そして高校生になって、さらに背が伸び、茜よりも二十センチ近く背が高くなっていた。
「そうだね。でも…君も小さいとは言えないね?」
茜は、眉間に浅い皺をつくった。
「はっきりと言ったら?デカ女と言いたいんだろ?」
茜は自分の背が高いことに、少々コンプレックスを持っているようである。中学を卒業する頃には、すでに百七十五センチを越していた。
遥樹はくすりと笑って、目の前の観葉植物の手入れを再開した。
茜は手渡された植木鉢を持って、店の方へ歩いていった。
遥樹は観葉植物の手入れを済ませると、それを持って立ち上がった。
クリーム色の壁が近づいてくる。屋根には濃緑色の瓦が乗っている。
二階建ての建物の一階を店に、二階を住居にしている。二階には台所の他には、六畳の部屋が二部屋あるだけだが、祖父と二人暮しのときも狭く感じたことはなかったし、今は一人なので十分な広さである。
店の裏口を開けて中に入ると、茜が引きつった顔を遥樹に向けた。
「む、虫…。早く取って!早く!」
茜は虫が苦手である。
遥樹が茜の肩に止まったカナブンを取ろうとして、細い指先を向けると、店の正面のガラス戸の向こうに老人の姿が浮かんだ。
遥樹がそちらに視線を向けると、細い顔と体の老人が会釈をした。上品な印象を与える人である。七十歳前後に見える老人の頭髪は、九割方白くなっているが、まだ十分な量が残っている。
反射的に会釈を返して、店の戸を開けた。
「ちょっと!早く取ってよ」
茜の声に棘が混ざる。
遥樹を睨みつけた視界の端に老人が入り、慌てて表情を柔らかくしようとしたが、失敗して引きつったような笑顔が浮かんだ。
遥樹はそっと茜の肩に止まったカナブンを右の掌に包み込んで、店の外に放り投げた。
カナブンは地面に落ちる前に羽を広げ、飛び去った。その周波数の高い音が遠ざかってから、遥樹は老人に視線を戻した。
老人は店の奥の方を見てから、遥樹に視線を向けた。
「木神さんはいますか?」
「この人で…」
茜が快活に答えようとしたのを柔らかく視線で制して、遥樹は声を出した。
「祖父のことでしょうか?」
老人は安心した表情を浮かべた。
「知人から木神さんのことを聞きまして…腕の良い樹医さんだと」
「祖父は二年前に亡くなりました」
老人の顔が翳った。
「私も樹医です。もし私で良かったら、御相談に乗りますよ」
老人は一瞬、戸惑ったようだったが、店の中に足を踏み入れた。