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誘拐の翌日

 時間は、三日ほど遡る。

 甲高いブレーキ音が起こって、車体が止まる。

 すでに、空が微かに白みを帯びてきていた。一日のうちで最も寒い時間が終ろうとしている。

 風也は上下の瞼が一つになろうとする力に逆らって、目を開けた。焦点が定まる前に目が閉じてしまう。

 強い眠気の中で、早く起きろと警鐘を鳴らしている自分がいる。

 昨夜、マルスと名乗る若い男に連れ去られて、しばらくは不安で眠気さえ襲ってこなかった。しかし、緊張を長時間維持することは困難である。どこを走っているのかも全く分からない車内で体を揺られながら、風也の体に次第に蓄積してきた疲労が、風也の意識を眠りの中に落とし込んだ。

 その眠りから、風也は必死で這い上がる。

 目を開くと、黒から青紫色に色を変えつつある空が目の奥に焼きついた。夜から朝への変化の時間が目の前にあった。

 少し体を動かすと、声がかけられた。

「起きたかい?」

 風也は視線を声の方へ移した。

 そこには、不安と恐怖の元凶があった。今のところ、風也に対して肉体的な危害を加えているわけではない。胃の中に放り込むことができるような余裕はなかったが、食物や飲物も与えられている。しかし、はっきりと自由は奪われている。

 これから先、どのようになるか分からないという、不定形の恐怖が存在している。

「食べるかい?」

 マルスの手の中には、菓子パンの袋がある。

 風也は菓子パンとマルスの間を数度、視線を往復させただけで、言葉を発しない。

「お腹が減っていないの?」

 マルスの声の調子は優しげなものである。

 しかし、風也の脳裏には怒りに満ちた表情が、耳にはその後に発した「殺す」という言葉が、はっきりと刻まれている。

 マルスは手を、さらに風也に近づけた。

 風也はさらに体を硬くしたが、ゆっくりと手を伸ばした。そうしないと、マルスの優しげな仮面が割れて、怒りの性質が現れるように感じたからである。

 風也が菓子パンの袋を受け取ると、マルスはオレンジジュースのペットボトルを後部座席用のカップホルダーに置いた。

 風也はそれを見ると、喉がかなり渇いていることに気が付いた。

「飲んでもいいの?」

 マルスは前を向いていた顔を、僅かに横に向けて言う。

「どうぞ」

 頬には微笑が浮かんでいるように感じたが、表情は斜め後ろからでは、はっきりとは見えない。

 助手席に目を向けると、スーパーの袋が置いてある。その中には、パンやおにぎりなどの簡単に食べることのできるものが、ぎっしりと入っている。菓子類やジュースなども入っていて、量に関しては十分な準備がしてある。

 風也はジュースを飲むと、自分がかなり空腹であることにも気が付いた。

 パンを口の中に入れて飲み込むと、先程までの恐怖が少し和らぐような気がした。

 それからしばらくすると、睡魔が襲ってきた。精神的な疲労と、空腹が満たされたことにより、睡魔は強力な力を持っていた。風也は数分の格闘の後、深い眠りに落ち込んでいった。

 再び目が覚めた時には、陽が十分な高さになっていた。車の時計を見ると、午前九時を数分過ぎている。

 車はゆっくりと走っている。広い道であるが、交通量の少ない道である。両側にはまばらに人家が立っているが、田畑や山が地面の大部分を占めている。

 そして、しばらくするとカーナビが進路を変更する指示を出す。入り込んだのは細い道であった。車二台がどうにかすれ違える程度の道幅しかない。

「トイレに行きたい…」

 風也は目が覚めてからずっと思っていたことを、小声で言った。

「何?」

 マルスは前方に固定していた視線を、少しだけ風也の方に動かした。

「おしっこがしたい」

 ルームミラー越しに、マルスは風也の様子を見る。表情に切実さが滲んでいる。

 マルスは人家が切れた場所を選んで、車を道端に止めた。外に出て、風也が座っている側のドアを開けた。後部座席のドアは、外からしか開かないようになっている。

 風也はドアのすぐ側に立っているマルスに、恐怖を感じながらも、車外に足を踏み出した。吐く息が白く濁っている。風はないが、気温はかなり低くなっているようである。しかし、寒さは感じない。感じる余裕がないのかも知れない。

 長い間車の中に押し込められていた体は、少し重く感じられたが、すぐに活力を取り戻した。

「この辺りで良いかい?」

 辺りに人の姿は見えない。

 風也は道に沿って広がる田んぼに向って放尿を始めた。そして、ふと横を見るとマルスも放尿を始めている。

 視線を転じると、遠くに人家が見えた。古びた家であるが、大きくて立派な造りの家である。母屋の横には納屋も立っている。距離は、小学校のグラウンドの端から端までと同じぐらいに見えた。

 膀胱にかなり溜まっていたらしく、尿の勢いは止まらない。

 マルスはすでに終って、車のドアから上半身を入れて何かを探しているようである。

 小水が止まった。マルスの視線は自分から外れている。少し向うには、民家も見える。

 風也は大きく息を吸ってから、全力で走り出した。自分の足が凄く遅く感じる。気持ちはもっと前に行っている。体が追いついてこない。

 振り返った。振り返る寸前まで、マルスがすぐ後ろまで迫っている恐怖が体中に小さな針を打ち込んでいるように感じられていた。しかし、マルスがまだ気が付いていないことが分かると、その針が溶けるようである。

 民家がなかなか近づいてこない。

 もう一度、振り返る。

「ひっ!」

 マルスの目が風也を捉え、走り出そうとしている。

 風也の爪先が地面を蹴った。バランスを崩して、地面に転がる。焦りがあまりにも大きく心を占めていたため、傷みは感じなかった。

 立ち上がった風也の掌には、血が滲んでいる。心臓が激しく鼓動を刻んでいる。息も苦しい。

(早く走らないと!)

 後ろを振り返りたい衝動が襲ってきたが、それを押さえつけて必死で前を見て走る。

 民家が迫ってきた。

 風也はさらに足に力を入れた。

 生垣が続いている。門まで数メートル。生垣が途切れて、門柱が立っている。

「誰か助けて!」

 門を通って、声を出した瞬間に肩を後ろからつかまれた。

「助けて!」

 つかまれた肩を大きく動かすようにして、マルスの手を振り解く。家の玄関まで走り、体を戸にぶつけるように叩く。戸が古くなって、枠に隙間が多くあるため、大きな音が響いた。

 その大きな音が風也を安心させた。これだけ派手に音が鳴れば、家の住人が気付いてくれるはずである。

 風也はそのまま、地面に座り込んでしまう。立ち上がれないほどの距離を走ったわけではないはずであるが、昨晩から長く続いている緊張状態が体の調子を狂わせている。心臓の鼓動が全身から聞こえてくるようである。

「風也君…悪い子にはお仕置きが必要だね」

 マルスの声は少し息切れがしているけれど、落ち着いている。

 家の中から人が出てくる気配はない。

 風也は腕を振り上げて、戸を叩く。再び、大きな音が響いた。

「この家には、誰も住んでいないようだね」

 マルスが言った言葉に、風也は改めて周りを見た。

 庭は荒れていた。雑草が茂り、庭木の剪定も長い間なされていないようである。幾つかの窓には、外から板が打ち付けてある。納屋の戸は、大きな割れ目ができていて、中の闇が見える。物干し竿は、地面に落ちていて錆のために変色している。その家の生活の匂いは、全て古ぼけていた。

 風也はマルスを見上げる。マルスの顔には、どんな感情も浮かんでいない。走ったために、少し息が乱れている。徹夜のためか、目が充血している。

 風也の中に、恐怖が爆発的に広がった。

「うっ。あっ…」

 喉の奥から何かが、せりあがってきた。吐気と嗚咽を混ぜたような何かである。

 マルスから視線を外せない。

 マルスの手が、風也に伸びてくる。

「もう…」

 風也に手が届く少し前、風也の恐怖が高まってパニックになる寸前、マルスから落ち着いた声が発せられた。

「もう二度と、逃げ出さないと誓ってくれるね?」

 その言葉の意味が、自分の中に沁み込むまで少し時間を要した。

 その間、マルスは風也の目から視線を外さずに、じっと待っている。

 風也は声を出す代わりに、首を縦に振る。

 首は滑らかに動かずに、小刻みに左右上下に揺れながら、どうにか縦に振られた。それを二度、繰り返した。

 マルスは風也の頭に手を載せて、優しく撫でた。

 この時から、風也はマルスから逃げることも、言葉に逆らうこともできなくなった。暴力を受けなかったために、余計に暴力に対する恐怖感が急速に増大してしまった。

 夕方になると、車は山道を走っていた。いつの間にか眠っていた風也は、シートから伝わってくる大きな揺れと、車全体から発せられている異音で目を覚ました。窓から下を見ると、タイヤは土埃を上げていた。

 小さなログハウス五軒が、山肌に張り付くように建っている。どれも全く同じ外観で、黒いスレート屋根と赤褐色に塗られた丸太の壁を持つ、平屋のこじんまりとした造りである。

「着いたよ」

 そうマルスは言って、風也を車外に出した。マルスは左肩に大きな鞄を下げ、右手で風也の左手を引きながら歩き始めた。

 風也はゆっくりと、視線を周囲に向ける。人の気配はない。五軒のログハウスは、どれも荒れている。駐車場らしきところにも、ログハウスの周囲にも雑草が生い茂り、壁が完全に変色して傷みが目立っている。

 マルスは何の迷いも見せずに、そのうちの一軒に近寄って行く。ドアにはドアノブの鍵とは別に、掌に完全に収まるほどの南京錠が取り付けられている。それを外し、ドアを開ける。

 ドアの蝶番が軋む音が、頭の中心まで響いてきた。同時にかび臭い空気が、流れ出してくる。マルスが電灯のスイッチを入れた。蛍光灯が明滅し、光を部屋に注ぐ。

 目の前に広がった光景は、予想していたよりも遥かに居心地が良さそうに見えた。床や壁はもちろん、家具類も古びていたが、手入れもされているし、掃除もされている。

 ソファーと椅子と小さなテーブルが一つずつあるだけの殺風景な部屋だが、余分なものがない分だけ清潔に見える。部屋は、風也の家のリビングより一回り大きいぐらいで、その部屋に台所も玄関もついている。外見から考えると、他に風呂とトイレぐらいのスペースしかないだろう。

「あまり上等とは言えないが、とりあえずは十分な宿だろ?」

 マルスの声には、どこか自慢めいた響きが混ざっている。そして、さらに山の湧き水を引いてきていたパイプが壊れていたのを修理したことや、電気はなぜか止められていなかったことなどを話した。

 その間に、窓を開けて部屋の空気を入れ替え、石油ストーブに火を入れた。

 部屋が暖まってくる頃には、ストーブの上の薬缶から湯気が出始めていて、その湯をカップラーメンに注ぐと、夕飯になった。

 風也とマルスの共同生活の始まりであった。

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