始動
遥樹は、いつの間にか閉じていた目を開けた。三日前の晩の記憶の中から、現在へと戻ってきた。
松の盆栽がほんのりとした光を発しているように見えたが、瞬きをすると街灯に暗く照らされた姿が浮かんでいるだけであった。
周囲の街路樹に意識を向ける。
風が通る。風が樹々の間を通り抜ける音が、遥樹に何かを囁きかけている。しかし寒い季節は、この道沿いに植えられている銀杏の樹は葉を落とし、樹の感受性が落ちている。
そのため、風也の心が発していたはずの救いを求める声を樹々たちは、はっきりと感じ取れていない。
(僕のところに来る途中で、風也君は…また僕のせいで人が不幸になっていこうとしている)
遥樹は焦りと苛立たしさを封じ込めながら、樹々たちから微かな風也に関する記憶を読み解こうとした。
だが集中しようとすればするほど、樹々の声は遠くなっていく。小さな樹々の声に、自分の中に溢れてくる想念が雑音となって混じってくる。
背後で急に足音が大きく聞こえた。自分の中に意識を集中していたため、周りの音に気が付かなかったのである。
「何をしているんだよ!」
茜の声と共に、肩甲骨の辺りに衝撃を覚える。
「家にいないから心配しただろ!」
そう言いながら、茜は掌でもう一度、遥樹の肩を叩く。
力の加減をしていないから痛い。だが、その中に込められた温かさを感じることができる。
茜の視線が、遥樹の手に支えられた盆栽の上に落ちて止まる。
「樹にも散歩が必要だと思って…」
少しおどけたように言った。
「ふーん…でも、もう十分だろう!帰るぞ」
茜は遥樹の手首を握って、家の方へ歩き始めた。
「どうして、僕の家に戻ってきたの?何か忘れ物?」
茜は遥樹の微笑から目を逸らして、前を向く。
「遥樹は、風也君がいなくなったことの責任が、自分にあるように感じているんだろ?」
茜は遥樹の手首を握ったまま引いている手に、さらに力を込める。
「風也君は、僕の店に来る途中で連れて行かれたんだよ」
「なぜ分かるんだ…樹が教えてくれたのか?でも遥樹のせいではないだろ?」
遥樹から返事が返ってこない。
茜は不安を覚えた。
「お前が悪いわけじゃないんだよ。それに遥樹が警察の真似事をしても、風也君を救い出すことができるわけじゃないだろう!」
歩いている道沿いにいる樹々たちが、茜の気持ちを掬い取って遥樹に伝えていた。
(こんなに心配させてしまっているんだね)
その夜、遥樹は松の盆栽を枕元に置いて寝た。
風也が若い男に連れ去られる場面を夢で見て、跳ね起きる。
窓から薄っすらとした光が、部屋の中に入り込んでいた。夜明けの時間帯が訪れている。
ふと視線を机の上に向けると、浅木刑事の名刺が目に入った。
(例え無駄になっても、もっと早く言うべきだった)
名刺には、職場の電話番号が印刷されているが、こんな早朝に仕事場にいるとは考えられない。名刺を裏返す。
そこには携帯電話の番号がボールペンで書き込まれていた。美しい字でないが、しっかりとした字には好感が持てる。浅木のどこかおどけたような雰囲気とは違っている。浅木の本質はもしかしたら、この字に表れているのかもしれない。
四回目のコールが鳴り終わるまでに、浅木の声が流れてきた。
さすがに声が寝ぼけている。
「木神です。すいません、こんなに朝早く電話して…」
「木神さん?」
「園芸店の…」
遥樹が自分のことをどう説明しようか考え始めると、すぐに浅木の声が生気を帯び始める。
「少し待ってください」
そう言うと咳払いが、小さく聞こえてきた。そして、再び電話に出た時には、普段と変わらない声の調子が戻っている。
「何か思い出したことがありますか?」
遥樹は不安を覚えた。自分の言うことを信じてもらえるかという不安である。しかし、すぐにそれを追い払った。
「風也君が連れ去られた時の様子が分かったのです」
無音の数秒が流れる。沈黙が重い。
「教えてもらえますか?」
力強い言葉だった。まともに取り合ってもらえないかも知れないという思いを、打ち消す力を持っていた。
遥樹は街路樹たちが教えてくれたぼんやりとした映像を、頭の中でもう一度再生するように浅木に語った。
浅木は遥樹が話している間、一言も発しないで、その言葉を頭の中にしっかりと刻み込んでいった。電話を切ると、すぐに着替え始める。一人暮らしを始めて、十五年以上にもなるが、自分の部屋で朝食を取ったことがない。朝食は喫茶店やファーストフードで済ませるか、抜いてしまう。掃除はそれなりにしていて、清潔であるはずであるが、どこか湿り気を帯びた部屋である気がしている。それは、帰ってきて寝るだけに近いような部屋に対する愛着の薄さからきているのかも知れない。
遥樹の言った場所まで、車を走らせた。
車通りは少ない。通勤時間までには少し間があるが、こんなに少ないのは、少し南に行けば、国道が通っているからであろう。
周りを見渡すと、犬の散歩をしている老人が、ゆっくりと歩いていた。
「四日前の夕方、白い車に乗った若い男が小学生の男の子をこの辺りで車の乗せるのを見ませんでしたか?」
老人は視線を少しの間、宙に投げていたが、ゆっくりと首を振った。
浅木は老人に礼を言い、そのまま遥樹の家に向う。
自分でも不思議に思っていた。遥樹の言っていることは、夢物語である。植物の言っていることが分かるなどは、正気の人間が言っていることとは思えない。それでも、遥樹の言っていることを信じている自分がいた。荒川家の事件の際に、遥樹が言ったことが正鵠を射ていたのも理由だ。
だが、それだけではない。浅木の中の何かが、信じても構わないと告げている。
(あいつの言っていることに、嘘は感じられない。あいつは自分の言っていることに対して、人がどう思うかということも分かっている)
店の裏手に回って、裏口を叩いてみた。
「すいません。木神さん、いらっしゃいますか?」
返事がない。同じことを数度繰り返しても、やはり反応はない。
店の入口の方へ行ってみても、やはりシャッターが閉まったままである。
二階の窓を見上げても、人影はない。
「遥樹はいないよ」
背後から急に声をかけられて、体に緊張が走る。
「茜さんだったかな?」
すらりと背の高い女性に視線を投げる。浅木よりも少し背が高いだけだが、かなり細いためにずっと背が高く見える。
「遥樹はいないよ。私に店番を頼んで、どこかに行ったんだ」
茜は不満そうな表情を浮かべている。
「木神さんの携帯電話の番号を教えてくれないかな?」
茜は小さく首を振った。
「遥樹は携帯電話を持ってないんだよ。持てと言っているんだけど、嫌だそうだよ」
前の仕事を辞めてからは、携帯電話が鳴ると樹々が緊張すると言って、解約してしまっていた。
浅木は小さく溜息を吐いた。
遥樹は助手席に松の盆栽を乗せて、車を走らせている。目的地が決まっているわけではない。風也が連れ去られたところにいた樹々の最後の記憶を頼りに、方角だけを決めて車を走らせている。
「風也君は、どこに連れ去られたのでしょうね…」
遥樹は松の盆栽、正確に言うと盆栽に宿った風也の祖父の魂、に語りかけているのである。
魂と言っても、全ての人格が存在しているわけではない。この盆栽について言えば、風也に対する思いだけが僅かに残っているのである。
浅木に電話をしてから探し始めて、すでに昼を過ぎている。
(この方向に来たのではないのか…)
風也を乗せてからすぐに方向を変えて、全く別の方へ行った可能性も十分にある。
遥樹の中に、迷いが出てきていた。早朝からずっと気持ちを張り詰めていたので、精神的な疲労が濃くなってきている。
車を路肩に寄せて、エンジンを止める。車内の澱んだ空気を入れ替えようと、窓を開けた。
遥樹の体に軽い震えが起こる。冷気が一気に足元まで覆う。その冷気の中に潜んでいる清冽さを、精神の中に呼び込んだ。
目を閉じる。棘を含み始めた心の中から、それが洗い流されて白くなるように感じた。
(風也…)
白い紙に墨が滲み出てくるように、何かが頭の中に浮かんできた。それをよく見ようと意識を集めると、逆にそれがぼやけてくる。自分の意識が強すぎて、微かな意識を掻き消してしまう。
遥樹は逆に意識を弛緩させた。自分を徐々に希釈していき、樹の呼吸と自分の精神の波を同化させる。
助手席に置いた松の盆栽、その中の風也の祖父の意識の断片を通して、周囲の樹々から風也の気配の残滓が伝えられてくる。
(あちらか…)
目を開いてエンジンをかける。その目には、先程までの迷いが消えている。
遥樹は再び、風也の居場所に近づき始めた。




