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細い体の男

 遥樹は盆栽に、視線を少しの間だけ投げかけた。顔を上げて歩き始める。その表情には迷いが見えない。

 夜が深い。いつもの見慣れた町がいくらかの違和感を伴って感じられる。

「ここか…」

 二十分ほど歩いたところで、遥樹は立ち止まった。

 そこは広い歩道である。車道との間に様々な樹々が植えられて、落ち着いた空間を形成している。

 遥樹は目を閉じた。何かが、意識の中に浮かんでくる。それを見極めようと意識を集中していく。

 甲高い車の排気音が空気を震わせる。改造されている車の排気音である。

 騒音によって、浮かびかけていた何かが分解していく。

 遥樹は視線を空に向けた。

 澄んだ空気の中に光点が、浮かんでいる。そして、吐き出した息が視界に白いヴェールをかけた。半分欠けた月が浮かんでいる。

「んっ?」

 松の盆栽に呼ばれたような気がして、目を下に向ける。

 次の瞬間、全く別の光景が広がる。陽が樹々の影を地面に釘付けている。影は濃くはなく、長々とした姿を曝している。

 風也が歩いている。なんとなく元気がない。

 車道との間にある樹々の列が途切れた。十メートルも行けば、再び街路樹の列が続いているが…。

 一台の車が止まった。

 十年以上前に売り出された小型車である。古い車体だが、きれいに磨き上げられているため、古さをさほど感じない。窓には運転席や助手席の窓にまで濃いスモークフィルムが張られていて、中を見通すことができない。

 止まった車から、若い男が降りてきた。エンジンはかかったままである。

 細い体。それが最初の印象である。背は高くもなく、低くもない。顔にも、特徴的なところがあるわけではない。細い顔には大きく思える黒い樹脂製フレームの眼鏡をかけているのが、少し印象に残る程度である。

「道を教えてもらえる?」

 風也は声のした方に顔を向けた。

 若い男の顔があった。

「うん…」

 そう言ってから、風也は少し不安を覚えた。この辺りの地理には詳しくない。今、自分のいつもの行動範囲からは逸脱したところにいる。この道は遥樹の店に行き始めてから、最近はよく通るが、一本道を外れると見知らぬところになってしまう。

「図書館は、どこにあるの?」

 風也は、ほっとした顔を見せる。図書館は知っている。月に二度は通っている場所である。家から歩いて十分ほどのところに、テニスコートやゲートボール場のある公園があり、その片隅に市立の図書館がある。木造二階建てのその建物は、風也の祖父が子供の頃に建てられた。最初はどこか暗い外観に気後れを感じていたが、祖父に連れられて何度か行っていると、子供の体重でさえ軋む階段や風でがたつく窓ガラスに落ち着きを感じるようになっていた。

「この道を真っ直ぐ行って、郵便局がある角を右に曲がって、小学校の前を通り過ぎて…お医者さんのある角を左に曲がって、突き当たりに公園があるから…その公園の奥の方にあるよ」

 風也は、若い男の顔を改めて見た。道を教えたことで少し落ち着いたためか、若い男の顔をしっかりと見ることができる。その若い男の顔はどこか歪な感じがする表情を貼り付けていた。微笑を浮かべているのだが、それは唇の形だけで、目や顔全体には緊張が漂っている。

「僕はこの辺りの道がほとんど分からないんだよ。一緒に車に乗って案内してくれないかな?」

 風也は小さく首を振った。

「これから行くところがあるんだ…」

「案内してもらった後で、そこまで送ってあげるよ。それならいいだろ?」

 若い男の声は大きくなっていく。それに応じて、強引さも増していく。

「でも急いでいるから…」

「大丈夫だよ。急いでいるなら車の方が早いよ。すぐ近くじゃないんだろ?」

 遥樹の店まで、子供の足では二十分以上必要である。

 風也が言葉を続けないでいると、若い男に背中を押された。その力は、逆らうには強く、怒りを感じるには弱いものであった。

 白い車に近づいた。

「さあ乗って」

 若い男の手によって開けられたドアの中に、風也の体は入り込んでいく。

 ドアが重い音と共に閉められると、若い男は運転席側のドアに素早く回り込んで開き、乗り込んだ。運転席に座った若い男は、急に黙り込んでしまった。その沈黙を車のエンジン音が埋めた。

 後部座席に座った風也は、体を伸ばすように前席の背もたれの向うのフロントガラスに映る風景を見ていた。

「そこを右に曲がって!行き過ぎました」

 風也の声に、若い男は反応することさえしない。車はそのまま直進し、さらに速度を上げた。

「止めて下さい」

 はっきりとした声で言ったが、若い男は前を向いて運転を続けている。

 一秒毎に不安が蓄積されていく。

 風也の中に充満していた不安が、思い切った行動をさせた。ドアを開くために、レバーを思い切り引いた。走行中の車、それもかなり速度が出ている車から飛び出せば、かすり傷程度ではすまないことは分かっていたが、そうせずにはいられなかった。不安が恐怖に変わっていたからである。

 しかし、ドアは開かなかった。チャイルドロックがかけられていて、外からは開くが内側からは開かないようにしてあるようである。

 風也は何度もレバーを引いて、ドアが開かないことが分かると、反対側のドアのレバーを引いてみた。結果は同じ。

「危ないから、大人しくしていなさい」

 若い男の声には、勝ち誇ったような雰囲気が含まれていた。

「早く止めて!」

 風也が叫んだ。そして、同じ叫びを何度も繰り返す。

「黙れ!」

 車内が若い男の声で振動した。細い体のどこにそんな大音声を出す力が潜んでいたのか不思議に思える。

 風也は体中の筋肉が固まってしまったように、動きを止めた。

「大きな声を出して悪かったね。でも僕の言うことには、逆らわないで欲しいんだよ」

 風也は喉の奥から、無理に押し出すような声を発する。

「帰りたいんだ…」

 その声は小さかったが、若い男にはどうにか届いたようである。

「大人しくしていて…そうすれば君を殺さなくて済む」

 若い男の声は風也の耳に入り込み、全身を急速に冷やしたように感じた。

 しばらくして信号で車が止まると、若い男は風也の方へ首を大きく曲げた。

「君の名前は?」

「守山風也…」

 若い男の口元に微笑が浮かぶ。その微笑は不自然な感じを与えるものではなくなっていた。

 だが、その微笑には風也がぞっとする何かが、はっきりと刻み込まれていた。

「僕のことは、マルスと呼んでくれ」

 これが風也にとって、あまりにも長い数日間の始まりであった。

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