風也
浅木が来てから、一週間が過ぎていた。まだ誘拐殺人事件の容疑者は逮捕されていない。
後十日もすると、年が明ける。世間では急に流れる時間が早くなったかのように、皆が気忙しく動き回っている。
まだ誘拐事件から一週間も過ぎていないのに、新聞やテレビなどから、その話題は消えている。
浅木からは、あれから連絡はない。捜査の協力の要請が再度あるかと思っていたが、子供がすでに殺されて事件解決の緊急性がなくなってしまったためであろう。
「こんにちは」
店の入口に小学生が立っている。
遥樹は手の中の文庫本から、視線を上げた。
「いらっしゃいませ」
緊張した顔の小学生は、瞳の大きな子であった。耳にかかるまで伸びている髪は、真っ直ぐで、深い黒を持っている。少し背が低いが、まとわせている雰囲気から受ける感じは、小学校の四年生か五年生だろうか。
「あの…樹のお医者さんですか?」
遥樹は微笑を湛えながら頷く。
「そうです。その樹を治すの?」
その子の両腕に支えられて、小さな鉢植えが宙に浮いていた。
大ぶりの丼ほどの大きさの植木鉢の中には、黒松が植えられている。子供の手首ほどの太さの幹が二十センチほどの高さまで伸び、そこから鋭角に枝が方向を変えている。そして、枝は数センチ下に曲がってから、地面と平行に三十センチほど伸びて止まっている。根元は丘状に盛り上がって、根がしっかりと立体感を出している。
(かなり技術のある人が造り上げたんだな。でも…)
遥樹の目の前に差し出された樹には、生気がなかった。松の葉は黄色く変色し、樹皮は乾いている。
「ちゃんと水はあげているのに、元気がなくなっているんです」
その表情には、助けを求める切実さが映りこんでいた。
遥樹は、少年の手から植木鉢を受け取った。左手で支えて、右手で葉や幹などに触れてみる。
少年は遥樹の様子を、不安そうな目で凝視している。
「しばらく、預かってもいいかな?元気にしてあげられると思うよ」
少年の顔に笑顔が浮かぶ。
「いいよ。本当に治るの?」
遥樹が頷くと、少年の表情がさらに明るくなる。
遥樹は少年が書いた名前と住所、それに電話番号を見て言う。
「風也君と言うんだね」
「うん。おじいちゃんが名付けてくれたんだ。それに、これもおじいちゃんがくれたんだよ」
風也という名の少年の指の先には、生気を失いかけている盆栽がある。
「遥樹。お客さん?」
その時、茜が店に入ってきた。いつもよりも一時間以上も早い時間である。遥樹の夕食を持って来るのは大抵、夕方の六時過ぎ、つまり父親の店が終ってからであるが、今はまだ五時になっていない。
外はすでに暗くなりかけていた。完全に闇が訪れるまではまだ時間が残されているが、急速に空が濃さを増している。
風也は茜に一瞬だけ目を向けて、遥樹に視線を戻す。
「お願いします」
頭をぺこりと下げてから出て行く少年を見送り、遥樹は茜を見る。
「今日は早いね」
「今日は、デートなんだって」
「茜が?」
遥樹のどこか間の抜けたような口調に、苦笑を返す。
「違うよ。うちの親だよ。結婚記念日なんだって。それで早めに店を閉めて、予約していた演劇を観に行ったよ。ところでそれは何?」
茜には遥樹の手の中にある盆栽と、先程の小学生が結びつかない。
「治療を頼まれたんだ」
「もしかして、さっき出て行った子に?」
「風也君というらしいね」
「今は盆栽が小学生の間で流行っているのかな?」
遥樹は思わず微笑を浮かべる。
「そうじゃないみたいだよ。おじいさんの形見の盆栽らしいね」
「あの子…昔の遥樹に、どこか似ている」
茜は風也の姿を思い浮かべた。外見が似ているわけではない。どこか頼りなげな印象が似ていると言えば似ている。しかし、何かもっと別のものが、あまりにも酷似しているような気がしたのである。それは、風也の姿を思い浮かべた瞬間に消えてしまった。
茜の言葉に、遥樹は別の類似性を思っていた。
(風也君のおじいさんと、僕のじいちゃん…松…偶然?)
翌朝、遥樹は慎重に風也から預かった盆栽の手入れを始めた。
まず、傷みが大きい枝を切っていく。次に鉢から松を取り出し、枝のボリュームに合わせて、密集しすぎている根を切った。養分が抜けてしまっている土の代わりに、適度な養分を加えた土を入れる。最後に松を鉢の中に戻して、たっぷりと、水を鉢植え全体に注ぎかけるように与えた。
樹の状態が良くなったら、形を整えるために芽摘みや剪定によって葉を整え、針金によって整枝を行い盆栽全体の形を完成させるのだが、風也はそこまで望んでいないのかも知れない。
風也は、翌日も遥樹の店にやってきた。
遥樹が店の奥に置いてあった盆栽を持ってきて、施した手入れの説明をすると、真剣な眼差しでその言葉に聞き入っていた。
「風也君、何か辛いことでもあるの?」
しばらく風也に接していると、樹の感覚を通して、気になることが分かってきた。風也の中にはどろりとした何か負のエネルギーを持つものが、心の奥底に渦巻いている。
しかし、遥樹の店に来て松の盆栽の側にいると、それが消えていく。
「ないよ」
風也は微笑を浮かべて、そう答えた。
そして、その翌日も風也は遥樹の店に足を踏み入れた。しばらくは日当たりの良いところに置いて、適度な水を与えながら樹の回復を待つだけの状態なので、前日と代わり映えがしなかったが、風也はしばらく盆栽を眺めて帰っていった。
そんな日が一箇月ほども続いた。偶に来ない日があっても、その翌日には必ず遥樹の店に来ていたのである。かなり打ち解けて、遥樹の沈みがちな気持ちに、茜とは別の潤いを与えてくれる存在になろうとしていた。
しかし、この三日間、風也は店に姿を見せていない。
「今日も来なかったの?」
茜が夕食の時に聞いた。茜も何度か風也とは会っていて、顔見知りになっていた。
「そうなんだ。この樹もかなり良くなったから、風也君に返そうと思っていたんだけど…」
風也は樹に針金をかけて整枝をすることを望んでいない。風也は盆栽が元気を取り戻すことができれば良く、形を整えるために針金を巻きつけるのは可哀想だと言った。風也は盆栽の中に、祖父の一部が存在しているのを感じ取っているのかも知れない。
「電話してみたら?」
茜の言葉どおりに行動することに、遥樹は躊躇を覚えた。
しかし、さらに一日が過ぎると遥樹は風也が残していった電話番号に連絡を入れた。
「はい。守山でございます」
中年女性の声が響いてきた。風也の母親であると思われたので、遥樹は簡単に説明をした。
「一箇月ほど前に風也君から、松の盆栽の治療を頼まれておりました木神園芸店の木神と申しますが、風也君は御在宅ですか?」
「今はいません」
電話の向うの反応は異常なほどの緊張感に溢れていた。声が少し甲高くなり、微かに震えもある。そして何より、それを懸命に堪えるような雰囲気が伝わってくる。
「お預かりしている盆栽の治療が終りましたので、お返ししようと思うのですが…」
風也の母親の息がゆっくり吐き出されるのが、聞こえてきた。
「分かりました。近いうちに引き取りに伺います」
遥樹は店の住所や電話番号を伝えた。
「それでは、風也君によろしくお伝え下さい」
風也という言葉が大きな力を持っているかのように、母親の呼吸が乱れるのがはっきりと感じられる。
遥樹は不安を心の中に刻み込まれたような気分で、受話器を置いた。




