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誘拐殺人

 ガラリと、引き戸が開けられる音が響く。

「寒い、寒い」

 そう言いながら、茜は遥樹の店に入ってきた。

 吐く息が白く濁り、緊張感のある空気の中に溶け込んでいく。年末が迫ってきていた。

 遥樹はちらっと茜に視線を向けただけで、再び手元に視線を戻した。

 遥樹は事件後、次第に人と接触することを避けるようになっていった。事件が解決したことで少しは気持ちが軽くなったように思われたが、沈みこんでいく気持ちを引き上げることはできなかったようだ。

 茜が毎日のように訪れることで、どうにか店もやっているし、閉じこもってしまうこともないが、放っておくと完全に人との接触を断ってしまいそうになる。

 元々、人に自分から話しかける方ではないが、さらにその傾向が強くなっている。

「今日はお客さん、どれぐらい来た?」

 遥樹は観葉植物を鉢から抜いて、根を整えてから土に肥料を混ぜて戻すという作業を繰り返している。

「うん。少しだけ…」

「すぐに夕飯の用意ができるから、手を洗ってきなよ」

 遥樹は手を止めて、立ち上がった。鉢植えをトレーの上に乗せて温室に持って行ってから、戻ってきた。

 茜は手に持った手提げ袋から幾つかタッパーを取り出して、皿に載せ、ラップをかけた。次に冷蔵庫を覗いて、野菜を取り出し、サラダを作る。十五分ほどで、夕食の準備が整った。

 遥樹がようやく手を洗い終えて、テーブルに着いた。

 茜の少し心配そうな視線が、遥樹の上に落ちる。

 遥樹はそれに気がついていないかのように、箸を持ち上げた。

「いただきます」

「どうぞ。と言っても、これを作ったのは私じゃなくてお母さんだけどね」

 二人の前に並んでいるのは、イカとサトイモの煮付けに、キノコとサケのホイル焼きである。茜は野菜を切ってサラダにし、料理を電子レンジで温めただけである。

 茜が毎日、夕食持参で遥樹のところにやってくるようになって、一月半が過ぎている。遥樹は朝食も昼食も茜に煩く言われてどうにか食べているが、少しの量をそれも適当なものしか食べない。このままではすぐに栄養不足になると思った茜が、夕食だけはきちんとしたものを食べさせようとしているのである。父親のやっている薬局の手伝いが忙しいことを理由にして、母親に作らせるのが茜らしいところであるが。

 ガシャガシャと音が鳴った。店のシャッターはすでに閉められていたが、それを外から人の手が叩いている。遥樹の家には店の入口の他は裏手に小さな勝手口があるだけなので、夜間の初めての来訪者はシャッターを叩くことになる。

 遥樹は最後の一口を口の中に放り込んで、椅子から腰を浮かせる。

「どちら様ですか?」

 大きな声ではないので、外に届いているか分からない。

 返事が返ってきた。

「県警の浅木です」

 声には聞き覚えがあるような気がするが、記憶が呼び起こされるまでにはならない。

「浅木さん?」

「荒川家の殺害事件の時にお会いしました」

 その言葉に、記憶が爆発的な広がりを見せた。ゆっくりと閉じかけていた傷口が再び開いた時のように、記憶と共にあった心の痛みが解放された。

 心臓の鼓動が、はっきりと強さを増した。喉の奥に何かの塊が突然現れたように感じた。

「木神さん?開けてもらえませんか?」

 浅木の声に押されるように、戸に手をかけた。開いて、シャッターの留金を外し、引き上げる。関節が急に滑らかさを失って、動かす度にギシリと音を上げているような錯覚がする。

 浅木の顔色は悪かった。浅木の肌は乾いていて、目の周りには隈が出ている。

「突然に押しかけてすいません」

 頭を軽く下げた浅木に、遥樹もつられるように会釈を返す。

「いえ…」

 遥樹の後ろから、茜の声が届いてきた。

「あの時の刑事さんか。どうしたの?」

 浅木の顔が少し驚いた表情に変わった。遥樹に視線を向ける。

「結婚されたのですか?」

 遥樹が答える前に茜が言う。

「一緒に夕飯を食べているだけだよ」

 茜の顔に微かに紅が射す。

 浅木が一瞬沈黙すると、茜がさらに言葉を継いだ。

「遥樹が一人で放って置いたら食べないから、一緒に食べてやっているんだよ」

 茜の表情が、少し怒ったようなものに変化していた。

 浅木はそんなことに、興味はないようである。

「そうですか。木神さん、少し時間をいただいてもよろしいですか?」

 浅木の以前会った時の何倍も丁寧な口調に何か抵抗し難いものを感じながら、遥樹は店の中に招き入れた。

「どうぞ」

 そう言って、遥樹は店の奥の居住スペースに行こうとした。すでに茜は食卓の上を片付けている。

「いえ、すぐに話は済みます…最近、隣の市で起こった事件を知っていますか?」

 遥樹は首を傾げた。このところ新聞も読んでいないし、テレビも見ていない。何か外から情報を得ようという気持ちがなくなっている。

「誘拐事件のこと?」

 茜が言葉を挟んだ。店の土間からの上がり框に腰をかけて、浅木と遥樹の会話に耳を傾けている。

「そうです。小学四年生の男子児童が一月半ほど前に姿を消し、その十一日後に死体で発見されました。若い男に連れ去られるところを二人に目撃されているので、現在は誘拐殺人事件として捜査を行っています」

 浅木は、遥樹の目を覗くように見る。

「…」

 遥樹は、浅木の次の言葉を待っている。薄い不安が、水面に油が膜を張っていくように広がっていく。

「力を貸して欲しいのです」

「…何をすればいいのですか?」

 浅木のいつものとぼけたような表情ではなくて、真剣な顔を見てしまうと、簡単に断ることが心苦しくなった。そうでなければ、即答で断っていただろう。今は人と極力関わりになりたくない。

「樹の声を聞いてもらいたいのです」

 茜が遥樹の横に立った。

「刑事さん。遥樹のその力を信じているの?」

 荒川家の事件の時は、遥樹の言葉を信じているとも、信じていないとも言っていなかった。つまり、疑いを持ちつつも完全には否定できないといった状態であった。

「捜査が完全に行き詰っていまして、ご協力願えませんか?」

 浅木は茜に愛想笑いを一瞬だけ向けて、遥樹に向き直った。

 遥樹は息苦しさを感じた。口から言葉が出てこない。

 荒川家の事件のことが、荒川さんに結果的に死を招いてしまったことが、重くのしかかっていた。

 遥樹はゆっくりと首を振った。

 茜が遥樹を代弁する。

「だめだってさ。それに犯人を捜すのは警察の仕事でしょ?」

 浅木は茜の言葉を聞いていないかのように、遥樹に言う。

「実は一週間ほど前から、行方不明の少年がいるのです。先程言った事件との関連が疑われています。もし、生きているのなら、少しでも早く見つけ出したいのです」

 遥樹はその真剣な様子に、思わず首を縦に振りそうになった。

 その時、浅木のスーツの中から携帯電話の着信音が広がった。

 三度、コールの音が響いても浅木は手を動かそうとしない。

「どうぞ。出てください」

 遥樹の言葉から一呼吸置いて、浅木は内ポケットに手を滑り込ませ、取り出した携帯電話を耳に当てた。

「えっ…そうですか。分かりました」

 浅木の眉間に深い皺が刻まれた。携帯電話を持つ手に、力が込められている。

 遥樹に向けられた視線には、深い失望が現れている。

「もう、木神さんの力を借りる必要がなくなったよ」

 口調の丁寧さが、少し薄らいできている。

「…」

 遥樹は発する言葉が見つからずにいた。浅木の失望だけが、はっきりと伝わってくる。

「行方不明の男の子は死体で発見されたよ。三十分ほど前の話しだ」

「そうですか…」

 遥樹のようやく発した言葉に浅木は反応せずに、体の向きを変えた。

「お邪魔しました。急に押しかけてすいませんな」

 浅木は店の戸をくぐって、外に出る。

 風がいつの間にか強くなっていた。樹々の葉擦れの音が空間を満たしている。

 遥樹の沈んだ顔を見て、茜が言う。

「気にしなくていいよ。遥樹のせいで事件が起こったわけじゃない」

 茜は言いたかったことと、口から出た言葉とのギャップに違和感を覚えながらも、次に言うことを考えつかなかった。

「僕はやるべきことをやっていないのかな…」

 その声は小さすぎて、茜の耳には届かなかった。

 茜はシャッターを閉めて、遥樹を振り返った。

「コーヒー飲む?」

 遥樹は頷いた。

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