侵入者
遥樹は長い想念の中から戻ってきた。
目の前には茜の心配そうな顔と、浅木刑事の訝しげな顔が目の中に飛び込んできた。
遥樹は微笑を浮かべようとして顔に力を込めたが、変に違和感を覚えただけであった。頭の中に、祖父の思い出と共に高速で映し出された記憶―それは自分の記憶と祖父の魂の記憶が組み合わさったものである―から解放されても、しばらくはその呪縛に自ら囚われてしまっていた。
茜と浅木は、遥樹の顔色が急速に失われていくのを見つめていた。
遥樹が膝を折り曲げて、額を掌で覆うようにして蹲る。
「遥樹!」
茜が遥樹の顔を下から覗き込むようにして見るが、遥樹は茜の顔が目の前にあることにも気が付いていない。
遥樹の全身が何か大きな力で揺さぶられるように、震え出した。
「どうしたんだ?救急車を呼ぶ方がいいのか?」
浅木の声に、不安なものが混じる。
遥樹の震えは止まらない。
「遥樹!」
茜は遥樹の体に自分の腕を回した。遥樹の見かけよりも幅の広い肩が、今は萎んでいるように思える。そして遥樹の体は寒い季節でもないのに、はっきりと分かるほど冷たくなっている。
茜は腕に思い切り力を込めた。
遥樹の頭を、周りの全てのものから遮断するように自分の体で包み込む。
(茜って、こんなに温かいのか…)
遥樹の体の震えは止まっていた。
しかし体から全ての力が抜けて、しかも絶えず不安が襲い掛かってくる。
「おいっ。救急車を呼ばなくても大丈夫なのか?」
浅木が少し苛立った様子を見せている。
「煩いな。黙っていて!」
茜は大きな声ではないが、はっきりとした口調でそう言い放つ。
浅木はもう一度口を開きかけたが、そのまま何も言わずに口を閉じる。
秋楡の花が風もないのに落ちてきた。その数が次第に増し、薄い黄色の霞が遥樹たちを包んだように見える。
遥樹の頭が微かに動いた。
茜は腕の力を緩めて腕を放し、遥樹の顔を覗きこむようにして首を曲げた。
遥樹の目がゆっくりと動く。白目の部分が、青いほどに白く、光っている。そこへ黒目が動いてきて、茜を正面に捉えた。
瞬きをゆっくり一度して、瞳を閉じる。
「遥樹!しっかりしな!そんなんじゃ、店の手伝いしてあげないよ!」
茜の意識が楡の木を通して、流れ込んできた。心の中に重く沈殿していたものを、茜の意識が持っている熱が分解していくように感じていた。
真っ青になっていた遥樹の顔色が、僅かに赤みを取り戻した。掠れた声が、口から漏れ出てきた。
「それは困るよ…」
焦点が合っていなかった目が、光を取り戻した。
「あっ…」
茜の喉から小さな声が漏れ出てきたが、言葉にはならない。その代わりに、遥樹の頬を軽く抓った。
遥樹の左の頬が広がり、歯が唇の間から微かに見える。
茜が手を放した後、遥樹の頬には微笑が残っていた。
その微笑は茜の頬にも伝染した。
遥樹は立ち上がって、樹に掌を押し付けた。
「すいません。私に力を貸してください」
その言葉は、遥樹の周りに存在する全ての植物たちに向けられた言葉であった。
遥樹の意識が、樹々の想念で満たされていく。まるで濃い緑の気体の中に閉じ込められたような感覚。しかし苦しさや閉塞感を受けるどころか、安らかで温かいものに包まれているように思える。
その樹々たちの想念の中から、必要としているものを選別していく。荒川家の庭にある楡の巨木が、最も遥樹の知りたいことを、自らの中に刻みつけていた。
遥樹は楡の巨木の中から記憶を両手にそっと包んで取り出し、自分の意識の領域で広げる。
心の中に、荒川夫妻が殺された時の様子が描き出された。そして、犯人の姿も鮮明に浮かんだ。
「こいつは大丈夫なのか?」
浅木が茜に不審そうな様子で問うた。
遥樹は両手を楡の木の幹に当て、首を真っ直ぐに伸ばした姿勢のまま、先程から動かなくなってしまっていた。具合が悪いようではないが、その姿勢のまま微動だにしないのは、やはり異常な感じを与える。
「うん…」
茜は遥樹から視線を動かさず、浅木にぞんざいに答えた。
茜には樹々の思いを感じ取ることはできない。だが、遥樹の様子は誰よりも分かる。遥樹の祖父がいなくなった今となっては…。
遥樹の様子は落ち着いている。しかし微かに苦痛を感じているように、顔に緊張が現れる。
木の枝から、葉が落ちる。それよりも、もっと短い時間が過ぎた。
「浅木さん。犯人が分かりました」
浅木は眉間に軽く皺を寄せて、疑わしそうな目を遥樹に向ける。
「どういうことだ?」
遥樹はその少し棘のある浅木の声に、微笑で対抗する。いや、ただ別のことに気をとられていただけである。
「昨夜…」
遥樹はゆっくりと話し始めた。
昨夜の午前二時、つまり今日になって二時間が過ぎた頃、犯人たちが荒川邸の門を開けた。
門には内側から、簡易的な鍵がかかっていたが、細い金属の棒一本で簡単に外されてしまった。
庭に入ってきたのは、三人。黒っぽい服を着ているということと、手袋をしている他は共通点のない外見である。身長も、体型も違っている。
その中で最も背の低い者が先頭に立って、他の背の高い者と腹回りに十分以上の肉が付いている者を率いている。
遠くでパトカーのサイレンの音がした。そして、近づいてくる。その音に合わせて、犬の遠吠えが聞こえてくる。
三人の動きが止まる。聴覚に神経を集中させて、周辺の様子を探っている。
近づいてきていたサイレンの音が、遠くなり始めた。
黒い影が互いに頷く。満月ではないが、それなりの光量を持った月光が降り注いでいる。
「今日は、やはり何も起きないな…」
最も小柄で痩せている人影から、口の中から僅かに漏れ出ただけという感じの声が発せられた。
その視線の先には、どこか廃屋めいた雰囲気になっている楡の木が月を背負うような形で立っている。
(この家に近づくだけで、いつも目の前の風景が歪んで見えるほどの頭痛に襲われていたが…今は微かにしか感じない。この微かな痛みも俺の中の記憶の残滓かも知れない)
黄色く変色した歯が、浮かび上がる。その口元から甲高い声だが、はっきりと男のものだと分かる笑い声が、夜気の中に小さく薄っすらと広がった。
小男は楡の木に冷たい一瞥を与えた後、荒川邸に体の向きを変えた。
二分後、三人は玄関の戸の鍵を壊し、邸内に入り込んだ。
それから、起った惨劇は、現場に残る血の跡が語っている。
浅木は少し話したところで、遥樹の話を止めようと思っていたが、その内容が現場検証を行って分かった事実―まだマスコミには発表していない―と一致していたために、止めることができなかった。
話し終えた遥樹を、浅木が厳しい視線で見ている。
「つまり、犯人はこの家に昔、雇われていた使用人だということだな?」
「そうです。身長は百五十センチほどで、痩せています。年齢は六十の少し前ぐらいでしょう。頬骨が高く、髪は半分以上白髪で、左耳の一部が欠けています」
浅木の中の疑心は消えない。しかし、遥樹の言っていることを否定するには、現場の様子と一致する点が多すぎる。現場検証で分かっている犯人の侵入経路や人数、そして犯行時間、これらの詳細は外部には伝えていない。
遥樹が犯人の一人であるならば、知っていても不思議ではないが、遥樹を犯人だとは思えない。
「そうか。一つの推理として聞いておくよ」
茜の頬が少し膨らむ。
「信じてないな!」
そう言ったが、茜はそれ以上、言わなかった。浅木の表情が真剣さを帯びていたからである。
浅木は手帳を取り出し、遥樹の顔の上に一瞬だけ視線を留めてから開いた。
「連絡先を教えてもらえるかな?また他に聞きたいことが出てくるかも知れないのでね」
茜が口の端を小さく曲げて、浅木に言う。
「はっきりと、事件についてまた教えてもらいに行くと言ったら?そうしたら協力してあげるよね?」
茜の言葉に遥樹は苦笑を返してから、浅木に自宅兼店の住所と電話番号を伝えた。
その翌日には、浅木は茜の言ったとおり、事件について聞くために遥樹のところへやってきた。
浅木は、半時間ほど店の中に立って遥樹の話に耳を傾けていたが、簡単な礼を言って店を出た。浅木が店を出る時、遥樹に向けた視線には畏怖の念が微かに混じっていた。




