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祖父の死

 そこで遥樹の頭の中に鮮明に浮かび上がっていた映像が、途切れた。

 遥樹の体は微かに痙攣している。視線も定まっていない。圧倒的な事件のイメージに精神の平衡を失っていることに、自分自身で気が付いていない。ただ意識の混乱に、翻弄されているだけである。

 外見的には、遥樹が銀杏の樹に体を預けるようにして立っているだけである。近くを通っている人は遥樹に一瞬、視線を向けるが、ことさらに声をかけたりする者はいない。

 遥樹の生命力が弱まり始めている。心臓の鼓動が間遠になり、体温が低下し始め、呼吸が浅くなる。

 そんな遥樹の状態を、周りの樹々たちは感じていた。遥樹と毎日のように交流している樹々たちには、遥樹の異常は耐え難いものである。

 その樹々たちの呻きを聞きつけることができたのは、この辺りでは一人だけであった。

(樹々たちが騒いでいるな…)

 遥樹の祖父は椅子に深く腰掛けて、休んでいた。

 病魔は確実に肉体を破壊し、体力だけでなく精神力も奪っていく。

 まだ、しばらくは生きていたかった。遥樹の成長を見守っていたかった。

 すでに遥樹は、肉体的には十分に大人になり、精神もかなり成長していた。しかし、木神家が受け継いできた力を制御できるところには達していない。

 歴代の一族の中には一生かかっても、それだけの精神力を得ることができずに、一族の者のサポートを常に必要とするものもいた。

 だが、現在では別の誰かのサポートを期待することはできない。祖父の知る範囲では、この力を持っているのは、自分と遥樹の二人だけになってしまっていた。自分はすでに病身で、長くは生きることができない。つまり、遥樹が十分な精神力をつけることができなければ、精神が破壊されてしまうこともありうるのである。そんなことを最近は、よく考えるようになっている。

 祖父は気だるい精神を強引に覚醒させて、騒いでいる樹々の声に意識を向ける。

 遥樹の様子が伝わってくる。

(しまった…。こんな事が起きるとは…遥樹には早すぎる)

 体に力を入れる。背中や足などが椅子に張り付いてしまっているのではないかと思えるほど体が重く、容易には立ち上がれない。その上、体の奥でいつも燻っている鈍い痛みが、急に勢い付いてくる。

 ゆっくりと立ち上がった後、大きく息を吸って歩き始めた。車を運転し、樹々の指し示す遥樹のもとへ行く。

 遥樹は膝を地面に着き、頬を樹に押し付けるようにしていた。

 一見すると、樹にもたれかかって眠っているように見えるが、祖父には遥樹の衰弱した様子がはっきりと伝わってきた。

(かわいそうに…)

 祖父は遥樹の持っている樹々と一体となる力を、孫が幼い頃から心配していた。その力の強い方である自分に比べても、遥樹はかなりの力を身につける可能性を持っていた。

 しかし、それは諸刃の剣でもある。力をコントロールできるだけの精神力は、それだけ強いものが要求され、それが身につかなければ自分を滅ぼすだけである。

 祖父は遥樹の肩に右手を当て、左手を銀杏の幹に当てた。まず、樹から流れ込んでいる事故のイメージを遮断し、樹々の意識を安定させるために、次々と温かいイメージを送り込んでいく。樹々の意識が本来の包容力と静けさを取り戻した後、その意識を遥樹に流し込んでいった。

 遥樹の心臓の音が、青年らしい力強さをゆっくりと取り戻していく。

「遥樹。大きく息をしろ」

 その言葉を祖父が二回繰り返した時、遥樹の口から空気が吸い込まれていった。

 吸った息を吐き出すと同時に、傍らに立つ祖父の方へ顔を向けながらゆっくり立ち上がった。

 遥樹は自分に起ったことを、はっきりと理解しているわけではなかった。しかし自分の精神が混乱し、そこから祖父が救い出してくれたことは分かっている。

 自分と、同じ高さにある祖父の顔は青白かった。

「じいちゃん…大丈夫?」

 自分の声が、少し掠れているのを感じた。

「それは、わしの台詞だ」

 祖父は銀杏の樹にもたれかかって、目を閉じた。遥樹が肩を貸そうとすると、手を小さく振る。

「大丈夫だ。お前は仕事に行きなさい」

 遥樹は時計を見た。始業時間まで後十分しか残っていない。今からでは、急いでも間に合わない時間である。

「今日は休むよ」

 遥樹は携帯電話を取り出して、職場に連絡を入れた。休む理由は、風邪ということにしておいた。

 遥樹がもう一度、祖父に手を貸そうとすると、今度は素直に手を借りた。

「遥樹。お前一人になっても…」

 祖父の声は小さかった。

「何?」

 祖父は微かに首を振る。

(それが分かるぐらいなら問題はないな。遥樹には、まだ自分の力の大きささえ分かっていない)

 雨粒が額に一滴落ちた。

 遥樹は空を見上げる

「降ってきた。これで樹々たちが元気を取り戻してくれれば良いな」

 家に帰り着いた祖父は、ぐったりとソファーに体を沈み込ませたまま、不規則な息を繰り返すだけだった。

 雨は徐々に激しさを増している。

「病院に行く?」

 遥樹は祖父の前の机の上に、ほうじ茶を置きながら聞いた。

「…大丈夫だ」

 祖父は思っていたよりも、しっかりとした声で応えた。

 祖父は遥樹を救うために消耗した体力が、なかなか回復しないことに、微かな苛立ちを感じていた。そして自分に残された時間を思う。

(時間が欲しい。こんなに切実にそう思ったのは、今までなかったな)

 祖父は体を起こした。熱いほうじ茶が入った湯飲みを持って、そろりとすする。

 遥樹は窓から外を見ている。そして、樹々に話しかけている。

(あんなことがあっても、遥樹は樹を怖れていない。何が起こったかはっきりとは分かっていなくても、樹の影響で自分が危険に曝されたことは分かっているはずだが…)

 遥樹が振り向いた。

「少し寝た方が良いよ。今日、店は休みだろ?」

 遥樹は祖父の側に近づいて、その左腕を下から支えようとした。

「遥樹。お前は大丈夫なのか?それに…先程起ったことを分かっているのか?お前は樹たちの意識に翻弄されて…」

 遥樹は小さな声を出す。

「分かっている…つもりだよ。僕の精神が弱いから、あんなことになったんだ。樹が悪いわけじゃない。もっと僕に…」

 遥樹は自分の力不足が恥ずかしかった。そして、祖父に対して申し訳なかった。遥樹の母親、つまり祖父の娘は樹々に感応する力を持っていない。その分も遥樹に期待をしていることも分かっている。

 しかし、遥樹は自分の力の大きさに気が付いていないのである。小さい頃から祖父に、力の使い方を教わっているが、なかなかうまくならない。それは遥樹の力が大きすぎるためであることは、祖父から聞かされていたが、本当の意味では理解できていない。

 祖父は何か遥樹に言ってやりたい思いに駆られたが、今の自分の状態では、十分な説明をすることができないと思い、口を閉じた。何倍にも重くなったように感じる体に、階段を上らせて、布団の中に潜り込ませた。

 睡魔が一気に意識を占領した。それに抵抗することは、できなかった。

 夢の中で孫の遥樹は小学生だった。台風の時に折れた枝を持って、哀しそうな視線を庭の桜に注いでいた。そして、祖父が桜の枝が折れたところを治療してやると微笑を浮かべ、長い間その根元に座っていた。

 目が覚めたのは、クリーム色のカーテンを夕陽が柿色に染めていた時間だった。雨はすでに止んでいるようである。

 祖父は布団の中で天井に視線を向け、そのまま考えに沈んでいく。

 カーテンに映った枝の影が、揺れる。外は程好い風が湿った空気を掻き混ぜている。

 しばらくして、何か決意を示すような眼差しが現れた。

(時間がないのは仕方がない。今、わしにできることを、いや、しなければならないことをするしかない)

 祖父は体を起こした。微かな眩暈が、襲ってくる。それが治まるのを待って、布団から体を引き剥がした。

 階段を下りると、遥樹がソファーに深く体を沈めて眠っていた。漏れ出る息が、空気をゆったりと震わせている。

 使い古したスリッパに足を入れ、庭に出た。

 空は、薄い雲がいくつか浮かんでいるだけで雨の気配を残していなかったが、大気や地面にはたっぷりと湿り気を含んでいる。

 黒松に向って歩く。この庭で最も樹齢が長い。祖父がこの店を始めた時にはすでに、人の足よりも太い幹を持っていた。

 柔らかな気配が、黒松から祖父の方へと流れてきた。長年慣れ親しんだ気配である。

 祖父が黒松の荒い鱗状の幹に手を当てると、包み込むような気配が祖父の全身を覆う。

 祖父は軽く口を開けて、夕闇が色濃くなってきた空気を肺に充満させる。

(わしに力を貸してくれ)

 五十年、それだけの時間が祖父と黒松の間に共有されている。

 祖父は黒松の幹を抱擁するように、全ての体重を預けた。

「遥樹…お前にも、わしと同じものを背負わしてしまうのだな。だが、お前一人には背負わせない。わしも一緒に背負って…」

 祖父の膝が地面に衝撃を与えた。体から力が抜け、黒松の根元に支えられるようにして動きを止めた。

 涼しい風が吹き始めた。それに枝を動かされ、周囲の樹々たちは、どこか哀しげな葉擦れの音を流し始めた。

「じいちゃん?」

 遥樹は瞼を開けた。いつの間にか、椅子に座ったまま、うたた寝をしていたようである。眠気は一気に拭い去られていたが、視界は完全には戻っておらず、霞がかかっている。それでも、構わずに体を起こし、樹々たちが見つめている場所に急いだ。

 ようやくはっきりとしてきた視界の中心に、祖父が映る。

 祖父は力なく、黒松の大木に寄りかかり、目を閉じていた。

「じいちゃん!」

 遥樹の声に、祖父は目を開いた。そして顔を僅かに動かし、遥樹を視界に入れる。

 遥樹は不安を覚えた。祖父の顔をじっと見つめる。

 その顔には、決意めいた眼差しを宿し、そして口元には微笑が浮かんでいた。

 葉擦れの音が急速に、その存在を増していく。遥樹には、その音が人々の悲しみに沈むすすり泣きに聞こえてきていた。

 祖父の首がゆっくりと曲がり、顔が下を向く。その間、世界の音が消えていた。静寂の中で遥樹は、その光景を見ていたように感じた。

 遥樹は祖父に駆け寄って、その力を失った肩を小さく揺すった。

「大丈夫?すぐに病院に連れて行くから…」

 肩だけでなく全身に力が入っていなかった。

 横に倒れそうになる祖父の体を松の木に委ねて、家の方へ走り出す。

 家に中に走り込んだ遥樹の視界に最初に飛び込んできたのは、茜であった。遥樹と入れ違いに、店に来ていたらしい。

「どうしたの?」

 遥樹の今まで見たことのないような必死の形相を見て、茜は胸の奥を突かれた様な感覚があった。

「じいちゃんが…」

 そこまで言って、遥樹は自分がある事実をはっきりと感じ取っていることに気がついた。だが、それを認めることはできない。

「じいちゃんが倒れた。早く、救急車を呼ばないと!」

 茜はバクリと自分の心臓が大きく脈打ち、頭に血が急速に回り、汗が噴き出すのを意識の隅で感じながら、一方で意識の中枢が混乱していた。

 電話機まで行くのに、足を二度、敷居と戸の端にぶつけたが痛みは感じなかった。

「救急車を!早く!」

 遥樹は慌てている茜の様子を見て、急速に落ち着いてくる自分があった。

 受話器を茜の手の上からそっと握り、力いっぱい握り締めている茜の手の力が緩むのを待って、自分の耳に当てた。

「落ち着いて、そちらの場所を教えてください」

 安定感のある声が、遥樹の耳に届いてきた。

「電話を代わりました。ここは…」

 遥樹は電話の向うの消防職員に、自宅の場所を伝える。自分の冷静さが少し意外だったが、それを深く考える余裕まではなかった。

 電話を切って、歩き出した。

 茜が遥樹の後ろに続いて歩く。

「遥樹…」

 その声は小さく、普段の明るく張りのある声とは違った印象を与えた。

 遥樹は少し首を曲げて、茜に視線を向けただけで返事はしなかった。

 祖父の姿が視界に入る。

 茜が息を呑む音が聞こえてきたが、店の前を通り過ぎたトラックの騒音がその音の後半を掻き消した。

 祖父の表情は柔らかなものだった。一見して、寝ているようにしか見えない。だが近づくにつれて、その不自然さが現れてくるようである。

 遥樹は祖父の前に膝をついて、地面に置かれている左手を取った。

(じいちゃんは…もう死んでいるんだな)

 それは、すでに救急車を呼ぶ前に分かっていたことだった。

「おじいさん…」

 茜が遥樹の横に膝をついて、祖父の左の二の腕に手をかけて話しかけるが、反応はない。

 救急車のサイレンが近づいてきた。今日、二度目に聞く音である。

 遥樹は立ち上がって、店の方を見る。

 二人の救急隊員と視線が合った。

「通報されたのは、こちらのお宅ですか?」

 遥樹が頷きながら、横に移動して隊員たちに祖父の姿が見えるようにした。

 隊員は担架を抱えて近づいてきて、祖父の様子を確認し、人口呼吸や心臓マッサージをしていたが、しばらくして担架に乗せた。

「どちらか救急車に乗りますか?」

 遥樹と茜を見比べながら言った。

「僕が乗ります」

 遥樹は茜に頷き、言葉をかける。

「店で待っていてくれる?電話するから…」

 茜の顔には不安げな表情が浮かび、目には涙が溜まっている。それでも、茜はしっかりと頷いた。

「分かった」

 救急車のサイレンが耳の奥に飛び込んできて、さらに加速感が襲ってきた。

 闇が迫ってくる街の中を救急車は進んでいく。

 遥樹は祖父の次第に白くなっていく顔を見ながら、悲しみが自分の肉体の隅々にまで行き渡っていくのを感じていた。

 祖父の通夜は、その翌日に、そして葬儀はさらに次の日に執り行われた。

 それは二年も前の出来事であった。

 遥樹の生活を一変させる出来事であった。その後、勤めを辞めて、祖父の園芸店を継いだのである。それは祖父の遺志ではなかった。遥樹が自ら決心したことであった。

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