事故
一週間後、祖父は手術を受けた。転移をしていた場所は、抗癌剤や放射線で治療を行うことにして、原発巣だけを切除した。
手術跡の抜糸が終ってからも、治療のために二ヶ月近く入院した。治療が一段落して一旦退院することになったのは、夏の盛りを過ぎた頃だった。
祖父が退院すると、遥樹は園芸店の仕事を色々と教えてもらい始めた。遥樹は祖父に園芸技術に関しては、幼い頃から教えてもらっていて、樹のことはかなりの知識や技術は持っているが、店の経営や商品などのことはほとんど知らなかった。信用金庫に勤めながらであったので、徐々にしか習得できなかったが、祖父は焦る様子もなく教えてくれた。
樹などの世話と違って、店の経営に関することは遥樹にとって楽しいことではなかったが、病気になっても園芸店を閉めようとしない祖父を助けるためには、必要なことであった。
紅葉の季節が終わりを告げる頃、再び祖父は入院した。体調が悪くなったからではなく、再び治療を受けるためである。
そして退院の三日前、担当の医師は遥樹と祖父に告げた。
「思った以上に治療の効果が現れています。転移していた癌も小さくなっています」
祖父は仕事の量を減らして店を続け、遥樹は休みの度に店を手伝うという、以前に近い暮らしに戻った。
祖父が倒れてから一年が過ぎようとしていた。
朝の通勤時間帯、パトカーと救急車のサイレンの音が響き渡っていた。
遥樹は、裏口で靴紐を結んでいる。立ち上がって戸を開くと、サイレンの音がさらに大きく響いてくる。
(何があったのだろう?)
遥樹は重苦しい気分に浸されながら、園芸店の店先に回る。
「仕事に行ってくるよ」
「もうそんな時間か?」
祖父が剪定鋏を持って、松の前に立っている。一年前よりも痩せているが、祖父の顔色は良い。
遥樹は鞄を肩にかけて歩き出した。
空には灰色の厚い雲が垂れ下がっている。風の中には、十分以上の水分が蓄えられている。
遥樹は駅まで二十分の道程を毎日歩いている。途中にある公園や小学校の校庭に生えている樹々が、何か温かなものを伝えてきてくれるのが心地良かった。
しかし、今日は樹々たちが落ち着かない。
止まっていたサイレンの音が、急に鳴り始めた。そんなに遠くない場所である。
遥樹は視線を周囲に巡らせた。
赤色灯が曲がり角を過ぎ、遥樹の方へ迫ってきた。救急車の白い車体が速度を上げながら、過ぎ去っていく。
樹々が身を縮めるように、緊張した気配を発する。
遥樹は、眩暈を感じた。周囲の映像が急に色を失い始める。腕を伸ばし、何か体を支えるものを手探りした。爪先が何かに引っかかってよろめく。
手に太い幹の銀杏の樹が触れた。一瞬だけ、大木に触れた安心感で満たされた。しかし、それはすぐに別のものに置き換わる。
「通学途中の小学生の列に自動車が突っ込んで、二人が死亡、五人が重軽傷」
制服を着た四十歳前後の警察官が、パトカーの無線で報告をしている。
人々の話し声、道が通行止めになったために起る交通混乱を整理する警察官の声、車のクラクション、そして駆けつけてきた保護者と思われる女性の悲鳴。様々な音や気配が、その一帯には渾然と、しかも大きなエネルギーをもって存在している。
それらが遥樹の中に、奔流となって流れこんでくる。さらに周囲の樹々たちが、そのエネルギーに、誘発されるように事故の時の記憶を周囲に吐き出し始めている。
その記憶のイメージが、遥樹の意識の中に、触れている銀杏の樹を通して広がってきた。
時刻は今から半時間ほど遡った時間である。厚い雲に遮られて、太陽の位置は分からないが朝の気配が感じられる。
十数人の小学生の集団が、歩いている。小学校の低学年から高学年までいて、中にはランドセルを背負っているのが不自然なほど大柄な子供もいる。天気予報で午後から天気が崩れるといっていたためか、半数以上が手に傘を持っていた。
昨晩に放映したテレビアニメの話を楽しそうに話している子供や、持っている傘をバットのように振っている子もいる。
先頭に立っている年長の少女が、列を乱そうとする子供に視線を向け、声をかける。
その光景は毎日のように繰り返されてきたものと、大きな差異はないように見えた。その一瞬後までは…。
黒い車体のワンボックスカーが、角を曲がって小学生の列の後方から迫ってきた。ワンボックスカーの中でも高級な部類の車種であるその車は、エンジン音の静粛性と車内の質感の高さで幅広い年齢層に人気である。
カリッ。
小さな異音が響いた。黒い車体の側面が、微かにガードレールに触れたのである。
車を運転しているのは二十歳代の男性で、顔の赤さや気だるそうな雰囲気からアルコールが体内に入っていることが分かる。それもかなりの量が…。
男は愛車がガードレールに接触したことにも気が付いていない。体の揺れに応じてハンドルを回し、偶然にガードレールにまともに衝突することを免れただけである。しかし、それから先に起ることを考えると、ガードレールに派手に衝突していた方がまだ良かったのだろう。
車は次に道のセンターラインに迫っていった。
運転手の手がピクリと動く。半分以上、夢の世界に入り込んでいる。
クラクション。
対向車の運転手は中年の男性、黒縁眼鏡が顔の半分を覆っているように見えるほど大きい、は必死の形相でハンドルを左手で握り締め、右手はクラクションボタンの上に叩きつけられている。
そのけたたましい音を、泥酔状態の若い男は鈍い表情で聞いているだけだった。
対向車のフロントガラスの中で中年男の表情が、緊張で痙攣していた。
衝突まで十分の二秒。
目を見開いた若い男の手が、ハンドルを急速に回転させていた。対向車との衝突は、寸前のところで回避された。
向きを変えた黒いワンボックスカーの先には、小学生の列が学校への道を整然と、そして賑やかに進んでいた。子供たちにとって、通学の時間も友達との遊びの時間である。
最初に凶悪で巨大な鉄の塊が急速に背後から接近してくるのに気が付いた列の中の一人は、一瞬息を詰まらせた後、喉の奥から搾り出すような悲鳴を上げた。
女の子の声に反射的に危険を察知した子供たちだが、それに対して適確な対処をすることができたのは一人もいなかった。
かろうじて振り向いて、黒い車を視界に捕らえ、強張らせた表情を作れただけだった。
ブレーキの音は、その凄惨な光景のBGMに相応しい破壊的なものであった。
鈍い、そして不快な音が歩道の上に出現し、消えた。
黒い車体が止まった時には、十近くの小さな肉体が地面の上に転がっていた。いくつかは、すぐに動き出したが、全く動く気配さえないものもある。
静寂は、ほんの僅かしか続かない。
子供の呻き声、続いて泣き声が現場を覆う。
運転手はハンドルを握ったまま前方を凝視し、視線を動かすことさえもできないほど硬直していた。だが、聞こえてきた子供の泣き声にビクリと反応し、そのまま震えとなって全身に広がった。
そのまましばらく動けずにいたが、震える体を押さえつけるように全身に力を入れながら、ドアを開く。
目の前に広がる光景に運転手は、絶望と怒りと激しい後悔を同時に感じた。体中の細胞が悲鳴を上げ、自らの発する熱で死滅していくように錯覚するほど、心臓が激しく鼓動を打ち続け、汗が服を濡らしていく。
すでに人が集まり始めていた。
犠牲になった小学生の親や知り合いはいないらしく感情的になる人はおらず、ほとんどの人が遠巻きに見ているだけである。その中から数人が前に出てきて、子供たちの様子を見始めたが、運転手に近づく者はいない。冷ややかで、攻撃的な視線を送る者はいるが…。
サイレンの音が、人々のざわめきの間から聞こえてきた。
初めて、運転手は周りを見渡した。人々の視線が逃げることを許さなかった。
そのサイレンの音は救急車のものであったが、すぐにパトカーのサイレンの音が重なった。




