聖人病と断る勇気
『ま、私みたいになりたいなんて物好きだとは思うけど、真似したいならどうぞご自由に。私もクラスにアンタみたいなのがいて前から不快だったから、アンタが変わりたいなら、その間協力してあげるわ』
彼女はそう言って笑うと、そのまま帰ってしまった。
屋上に取り残された僕は、彼女の言葉の意味を考える。
告白が成功したということなのだろうか、よくわからない。
そもそも告白ですらないのに。
混乱しながらも、寒くなってきたので僕も家に帰る。
彼女に心の中を打ち明けて、今日は抗欝剤を飲まなくてよさそうだ。
翌日。いつものように学校へ行く僕。
教室に入ると、教室で片肘をついている彼方さんと目があう。
「お、はよ……」
「おはよ」
いつもは挨拶なんてしていなかったが、昨日が昨日なので挨拶をする。
片肘をついたまま、ツンとした表情で挨拶を返される。
「おーおー流石キリスト。彼方さんにも挨拶するとは、まさに聖人」
「蓮華君、皆に優しいのはいいことだとは思うけど、彼方さんに優しくしてもいいことないと思うな」
そんな僕達を、クラスメイトが茶化す。
無性に腹が立って、そいつらを睨み付けてやろうかと考えるも、
「……ははは」
曖昧な笑みを浮かべることしかできない。
「はぁ」
そんな情けない僕を見て、彼女はため息をついた。
「蓮華君、これ配っておいてくれないかしら」
「え、あ」
ホームルームの後、了承を待たずに僕の机にプリントをどさどさと置いていく担任。
すぐにトイレに行きたかったのだが、教師はプリントを置くとさっさと教室の外に消えてしまった。
「はあ」
諦めてプリントを配っていると、ため息をつきながら彼方さんがやってきて何も言わずプリントを半分奪い取ってそれを配っていく。
「あ、ありがと」
「昼休憩に屋上ね。反省会」
「へ?」
きょとんとする僕を後目に、彼女はずかずかとプリントを配っていく。
「なんだ彼方さん、キリストを見て改心したのか、それでいいんだよそれで」
クラスメイトの男子はプリントを配る彼女を見てゲラゲラと下品に笑っていた。
そして昼休みが始まると、彼女はすぐにお弁当を持って教室を出て行った。
恐らくは屋上へ向かったのだろう。
彼女に指定された通り、僕もお弁当を持って屋上へ向かい彼女の姿を探す。
カップルで溢れ返る屋上の中、端っこの人目につかない貯水タンクの裏に彼女は座っていた。
「何でこんな隅の方に」
「何よ、私は端っこが好きなのよ。大体本物のカップルと勘違いされたら困るでしょ」
「それもそうだね」
彼女の隣に座りお弁当を開く。
それからしばらく、無言でお互いお弁当をパクパクと口に運ぶ。
とても気まずい。
「さっき……朝礼の後の時ね、アンタトイレ行きたかったんでしょ」
「え、何でわかったの」
ごちそうさま、と自分のお弁当を食べ終えた彼女はまだ食べ終えていない僕に遠慮することなく、今日の朝の一件について触れだした。
「仕草見てればわかるわよ」
「……ストーカー?」
「死にたいようね。……まあ、それくらい無神経に物を言えた方がいいとは思うけど。罰としてそれ貰うわ」
ひょいと僕のお弁当に入っていたエビフライを奪い取り口に含む彼女。
ずっと不機嫌そうだった彼女であったが、一瞬だけパッと明るくなった。
「……美味しい。アンタの両親料理上手なのね」
「え、あ、それは僕が作ったやつで」
母が低血圧でなかなか朝起きないため、朝食やお弁当は自分が作っている。
その負担がまた、僕の精神を蝕んでいるのかもしれないし、
あるいは気分転換になっているのかもしれないが、もうすっかり日課だ。
「見かけによらず女の子みたいな趣味……いや、見かけもなよなよして女々しかったわね。とにかく、これからはエビフライを多目に作っておくことね。相談料よ」
「わ、わかった」
すぐに不機嫌そうな顔に戻りながらも美味しそうにエビフライを頬張る彼女を見て、本当に恋人になっているかのような錯覚を覚えるも、先ほど彼女が本物のカップルと勘違いされたら困ると言っている通り、僕と彼女の関係は……何なのだろうか?
「ちゃんとね、ああいう時は断らないと駄目よ。私がプリント半分持った時も、トイレ行きたいって言って全部寄越せばよかったのよ」
「う……そこまで察してくれるなら全部持ってくれても」
「アンタを試してたのよ。アンタが漏らそうが知ったこっちゃないわよ」
「は、はは……で、でも手伝ってくれる人に全部押し付けるとか、失礼だし」
「ま、まずは断る勇気を持つことね。ということで反省会終了」
断る勇気という彼女の言葉を頭の中で反芻させながら、僕もお弁当を食べ終える。
そしてしばし続く無言の時間。
彼女は何か喋ることなく教室に戻る事もなく、携帯電話を弄りだす。
「その、何で彼方さん、僕に協力してくれるの?」
「当ててみれば?」
普通の女の子……男の僕が普通の女の子を語るのはおかしい話なのかもしれないけど、あんな酷い告白をされたというのに、僕に協力してくれるのは一体何故なのだろうかと考えてみる。
しかし答えは出ず、場の空気も何だか気まずいので冗談交じりに、
「僕の事が好」
「嫌いよ」
「……」
冗談のつもりだったのに即答で返されてしまう。凹む。
「言ったでしょ、クラスにアンタみたいなのがいて不快だったって。不快なものを拒否するよりは、それが変わりたいって言ってるんだから変えてあげた方がマシでしょ」
「……優しいんだね、彼方さん」
「……は? 私が優しい? アンタどこに目がついてんの? 意味がわかんない」
こんな僕を見捨てず協力してくれるのだから彼方さんは優しいと率直に思って言ってみただけなのだが、
何故か彼女は顔を赤くしてそれを否定しだす。
「ていうか何で私こんなのと未だに屋上で座ってるのよ。用が終わったんだから戻るわ」
そしてそそくさと教室の方へ戻ってしまい、取り残された僕はハテナマークを浮かべるばかりだった。
教室へ戻る途中、お腹の調子が悪くなる。
朝は小だったが今度は大だ。
ストレスで胃腸がおかしくなってきたのだろうか?
トイレに向かおうとする僕であったが、
「おお蓮華、丁度いいところに。次の授業の資料を運ぶのを手伝ってくれんか」
タイミングの悪いことに、次の授業の担当教師とばったり出くわしてしまう。
僕の返事を待つことなく、重たそうなダンボールを僕に手渡そうとする教師。
反射的にそれを受け取ろうとして、『断る勇気』という言葉が再び頭の中で復唱される。
駄目だ、これじゃ駄目なんだ。これを受け取ってしまえば何も変わらない。
教師という絶対的な存在を前に僕がビクビクとしていると、その向こうでこちらの様子を窺う彼方さんの姿が見えた。
まるでわが子を見守る親のような、神妙な表情をしていた。
「ぼ、ぼ、僕、と、とと、トイレ行きたいんで、ししし、失礼します」
明らかに挙動不審に、まるで僕は今までずっと吃音持ちだったかのような情けない声でそう言うと、トイレに逃げ込んだ。
「はぁ……はぁ……やった、やってやった」
男子トイレの個室で洋式に座りながら、何ともいえない解放感を味わう。
それがトイレによるものなのか、断ることができたことによるものなのかはわからないが、とにかく僕は救われた気分を味わえていた。
トイレを終えた後教室に戻る途中、
「見てたわよ。やるじゃない、すごく不審者っぽかったけど」
授業の資料を運んでいる彼方さんに出会う。
「え、あ、ごめん、持つ、持つよ」
「当然よ」
彼女の持っていたダンボール箱を代わりに持つ。
彼女の手を見ると、かなり赤くなっていた。
男の僕でもこのダンボールは運ぶのに苦労するのに、彼女は一人でこれを資料室からここまで持っていったというのか。
その間僕はずっとトイレで一歩前進しただの喜んでいたわけか。
「ごめん、僕が断ったせいで、近くにいた彼方さんに仕事が回ってきたんだね」
「そんなの気にしてるから駄目なのよ。責めるなら重い荷物を私に運ばせようとするあの教師よ」
「ははは……」
教室に辿り着く。
ダンボール箱を持ち両手が塞がっている僕の代わりに彼女は教室のドアを開ける。
「ありがとう」
「どういたしまして」
相変わらずぶっきらぼうでキツイ言い方ではあったが、僕には彼女のその言葉が、聖女の言葉のように思えた。