第8話
「キュ、キュウゥ……?」
絶対零度のブレスを完全に無効化され、一切の害意なく優雅に歩み寄ってくるロイドに対し、九尾の狐は完全に困惑していた。
この数年間、恐ろしい魔導廃棄物の冷気から身を守るため、たった一匹で孤独に氷の鎧を纏ってきたというのに。目の前の人間から放たれる「異常なまでの愛情と安心感」に、張り詰めていた野生の警戒心が揺らいでしまう。
「ずっと寒かったのでしょう。さあ、まずはこれを。体の芯から温まりますよ」
ロイドは懐から、美しい意匠が施された魔法の保温容器(特注の魔導水筒)を取り出した。
グランヴェル財閥の最高頭脳『研究開発部(R&D)』のエリートたちが、徹夜で配合成分を計算し尽くして完成させた『極上魔肉と霊草の特製つみれ汁』である。
蓋を開けた瞬間、極寒の猛吹雪の中でもかき消されない、暴力的なまでに芳醇な湯気と香りが立ち昇った。
「キュゥゥ……!」
九尾の狐の瞳から、完全に敵意が消え去った。
抗いがたい香りに誘われ、おそるおそる巨大な鼻先を近づけ、つみれ汁を一口すする。
――その瞬間。
特製スープに溶け込んだ極上の栄養と温もりが、九尾の冷え切った体を内側から優しく包み込んだ。全身を覆っていた禍々しい氷の鎧が、パリンッ、と心地よい音を立てて砕け散る。
「美味しいですか? 良かったです。では、少し失礼して……」
九尾がつみれ汁に夢中になっている隙を突き、ロイドは懐から最高級の獣毛ブラシを取り出した。
そして、神がかった手つきで、九本の巨大な尻尾の『九倍のブラッシング』を開始したのである。
「素晴らしい……! 氷の魔素を浄化し続けたこの圧倒的なアンダーコート(下毛)の密度! 雪のように白く、そして絹よりも滑らかだ! ああ、手首が千切れても構わないほどブラッシングのしがいがありますね!」
「……ロイド様。手首が千切れては後の書類仕事に支障が出ますので、程々にしてください」
吹雪の中で狂喜乱舞しながら九本の尻尾を高速かつエレガントに梳かしていくロイドと、それを無表情で見守るクラウス。
極上のつみれ汁と、かつて味わったことのない至高のマッサージ。数年間の孤独な極寒生活から一転、天国のような温もりに包まれた伝説の幻獣は――開始十秒であっさりと陥落し、ロイドの足元でゴロゴロと幸せそうに喉を鳴らし始めた。
「さあ、私と契約しましょう。三食昼寝、ぽかぽかの床暖房に極上の魔肉付き。完全防衛の広大なリゾートで、のんびり暮らすのです」
完全に骨抜きになった九尾の狐に対し、ロイドは涼しい顔で一枚の羊皮紙――宛先を『ワケアリ不動産・指定役員』に限定した【修正版・魔法契約書】を取り出した。
「インクは不要です。あなたが『お引越し』に同意いただけるなら、ここに肉球をポンと乗せるだけで構いませんよ」
「コンッ! ポンッ!」
愛らしい鳴き声と共に、九尾は自ら進んで巨大な前足を契約書に押し当てた。
可愛らしい音と共に、羊皮紙に淡く光る『肉球のマーク』が浮かび上がり、契約が成立する。
『……あったかい。お兄ちゃんのご飯、すっごく美味しいのじゃ。もっと尻尾の付け根を撫でてほしいのじゃ!』
「おや。少し古風で愛らしい声ですね。もちろん、いくらでも撫でて差し上げますよ」
甘えるような少女の声(念話)が、ロイドとクラウスの脳内に響く。
「ロイド様。今回は無事に、我々役員のみの脳内に念話が届いております。世界中の出向社員の脳内に『のじゃロリ狐』の甘え声が響き渡るという、大惨事(社内放送事故)は免れました」
「ええ、我が社のコンプライアンスは完璧ですからね」
胸元に擦り寄ってくる巨大なモフモフを抱きしめながら、ロイドは至福の笑みを浮かべた。
「な、なんて手際だ……我々が手も足も出なかったあの恐ろしい氷の魔獣を、たった一杯のスープとブラシで手懐けてしまうなんて……!」
「おや、組合長。こんな吹雪の中を、わざわざ案内してくださっていたのですか」
岩陰でガタガタと震えながら、呆然と事の成り行きを見守っていた温泉組合長と、数名の元・旅館従業員たち。
ロイドは九尾の狐を撫でながら、居住まいを正して彼らに向き直った。
「心優しきシラヌイ温泉街の皆さん。あなた方は、最後までこの土地を愛し、見捨てられずにいた。……その責任感、高く評価いたします」
ロイドの言葉に、組合長たちはハッと息を呑んだ。
「今日から、あなた方を我が『ワケアリ不動産』の保護施設の専属スタッフとして再雇用してあげましょう。初任給は金貨十枚。もちろん、この九尾ちゃんのブラッシング手当もつきますよ」
「き、金貨十枚!? かつての老舗旅館の支配人クラスの月給じゃないか!」
「一生ついていきます、社長!!」
こうして、魔獣の保護と優秀な温泉スタッフの確保は完了した。
ロイドは九尾の狐の巨大な尻尾に埋もれながら、氷に閉ざされた温泉街の跡地を見渡す。
「クラウス。中の荷物と人員の退避は完了していますね?」
「はい、ロイド様。すでに完了しております」
「では――我が一族のお家芸を披露しましょうか。上空の魔導艦に合図を。この無価値な氷と廃屋を『更地』にします」
ロイドが優雅に指を鳴らした、その直後。
遥か上空の雲海から、すべてを融解させる極大の『熱線』が、猛吹雪のゴーストタウンへと放たれた。




