第7話
かつて名湯として栄え、万病に効くと謳われた『シラヌイ温泉街』。
しかし現在、その湖畔の街に風情ある湯煙の姿はない。あるのは、一年中吹き荒れる死の猛吹雪と、屋根まで完全に厚い氷に閉ざされた旅館の残骸だけである。
「……ひどい有様ですね。大気中の水分ごと、すべての魔素が凍りついています」
「ええ。上流の悪徳領主が不法投棄した『冷却の魔導廃棄物』のせいで、源泉から凄まじい冷気と毒素が溢れ出しているようです。一般の冒険者であれば、数分で血液まで凍りついて氷像に変わってしまうでしょう」
視界すら純白に染まる極寒のゴーストタウンの中央。
そんな歩くことすら困難な極限環境の中を、ロイド・グランヴェルと秘書官のクラウスは、王宮の庭園でも散歩するかのような優雅な足取りで進んでいた。
二人が着ているのは、グランヴェル財閥『研究開発部(R&D)』が最新技術と国家予算レベルの素材で仕立て上げた、特注の【極地防寒用・スリーピーススーツ】である。
いかに絶対零度の吹雪が吹き荒れようと、スーツの表面で冷気は完全に遮断され、内部は常に「春の陽だまり」のような快適な温度に保たれていた。
「ですがロイド様。これほどの猛吹雪の中では、視界が悪すぎますね」
「問題ありませんよ、クラウス。魔獣が絡む事故物件は、すなわち『最も魔素が濃い場所』に原因があるのです。……あそこです」
ロイドが指差した先。
それは温泉街の最奥に位置する、かつて『大源泉』と呼ばれていた巨大な露天風呂の跡地だった。
そこは猛吹雪の発生源であり、巨大なすり鉢状になった温泉の跡地には、青白く発光する禍々しい氷の結晶が山のようにそびえ立っていた。
「……ロイド様。あの中央に、巨大な生体反応があります」
「ええ。出迎えてくれたようですね」
クラウスがタブレットを操作した直後。
バキバキと巨大な氷柱を砕きながら、猛吹雪の中から『それ』は姿を現した。
『ルルォォォォォッ……!!』
大気を震わせる咆哮。
現れたのは、見上げるほど巨大な純白の妖狐だった。
全身からダイヤモンドダストのような美しい冷気を立ち昇らせ、そして何より目を引くのは、その背後で扇のように広がる『九本の巨大な尻尾』である。
「伝説の幻獣……『九尾の狐』ですか。これほど高位の魔獣が住み着いているとは」
「おお……おおおお……!!」
冷静に分析するクラウスの横で、ロイドは目をカッと見開き、感嘆の声を漏らしていた。
その瞳に宿っているのは、恐怖などではない。極限まで高まった、変態的……もとい、純粋な『モフモフへの愛』である。
「見なさい、クラウス! 数年間、この街に流された不浄な冷却魔力をたった一匹で吸い上げ、浄化し、極寒から身を守るために進化したあの姿を!!」
ロイドは、うっとりとした表情で九尾の巨躯を見上げた。
「大自然のフィルター機能が生み出した奇跡……圧倒的な密度を誇るアンダーコート! 雪のように白く、そして信じられないほどのボリュームを誇る『極上の冬毛』です!!」
「ロイド様。感極まっているところ申し訳ありませんが、魔獣が威嚇態勢に入りました。猛烈な冷気ブレスが来ます」
見知らぬ侵入者の熱すぎる視線に対し、九尾の狐が毛を逆立て、口元に青白い絶対零度の吹雪を圧縮し始めた。
直撃すれば、巨大な旅館すら一瞬で氷のオブジェへと変える幻獣の一撃。
『ガァァァッ!!』
放たれた極寒のブレスが、ロイドを真っ向から飲み込む。
――しかし。
「素晴らしい……! そして何より、あのフワフワの尻尾が『九本』もあるのですよ!?」
絶対零度の吹雪を特注スーツでふわりと霧散させながら、ロイドは無傷のまま、歓喜に震える声で叫んだ。
「九本ということは、モフりごたえも九倍! ブラッシングのやりがいも九倍ということです! ああ、なんて贅沢な魔獣なのでしょうか!」
「……ええ。おっしゃる通り、経理に請求するブラッシング用の高級ブラシの経費も九倍になりますね」
猛吹雪の中で一人熱狂するロイドと、無表情でタブレットに経費を打ち込むクラウス。
そんな規格外の人間たちを前に、九尾の狐は「……えっ?」という顔でブレスを止め、戸惑ったように首を傾げた。
「怖がらなくて大丈夫ですよ。……さあ、私が極上のぬくもり(愛)を与えて差し上げましょう」
ロイドは一切の警戒もなく、世界で最も優雅な足取りで、巨大な氷の妖狐へと歩み寄り始めた。
氷に閉ざされたゴーストタウンで、冷徹な御曹司による『九倍のモフモフ買収劇』が、今、幕を開ける。




