第38話
冷たい雨が上がり、荒野に白々とした夜明けの光が差し込み始めていた。
泥だらけになったロイドの膝の上には、見上げるほど巨大な神獣が、まるで甘える子犬のように鼻先を乗せて静かに息をしていた。
「……ええ、いい子です。泥の下には、こんなにも美しく力強い被毛が隠れていたのですね。後でたっぷりと極上のシャンプーをして、フワフワにブラッシングしてあげましょう」
ロイドは凍えるような寒さも忘れ、優しく、何度も何度も巨犬の頭を撫でていた。
巨犬もまた、目を細めてその温もりに身を委ねている。それは、人間という種族に対する絶対的な恐怖と拒絶が、確かな信頼へと変わった瞬間だった。
――しかし。
その穏やかな静寂は、無骨な魔導機関の排気音によって無惨に引き裂かれた。
「オイオイ、勝手にウチの『商品』に触ってんじゃねえよ、泥だらけの兄ちゃん」
荒野の岩陰から姿を現したのは、黒ずくめの重武装に身を包んだ数十人の男たちと、彼らが乗る無骨な装甲馬車だった。
彼らの胸元には、黒い鎖を模したエンブレムが刻まれている。
魔獣を「兵器」や「素材」としてしか見なさない、悪逆非道な闇の密猟シンジケート『黒の鎖』の回収部隊だった。
『……ッ!!』
男たちの姿を見た瞬間、巨犬の巨体がビクッと跳ねた。
先ほどまでの穏やかな空気は消え失せ、かつて痛めつけられた壮絶なトラウマが蘇る。巨犬は恐怖に震えながら、ロイドの背後に隠れるように小さく縮こまった。
「チッ、また使い物にならねえ欠陥品に戻りやがって。昨日から遠隔で呪具の刺激を強めてたのに、ただ怯えるだけかよ」
部隊のリーダー格の男が、下卑た笑いを浮かべながら手元の小さな魔導具を操作した。
バチィッ!!
『キャァァンッ!!』
巨犬の首に嵌められた黒い鉄の鎖から、強烈な紫色の電撃が放たれる。
悲鳴を上げて地に伏せる巨犬。
「ヒャハハ! ほら見ろ、俺たちが躾けてやらねえと、ただの駄犬だ! そこの兄ちゃん、邪魔だからどきな。そいつはウチの組織の所有物――」
男が言葉を言い終えるより早く。
――ヒュッ。
音もなく。
本当に、一切の予備動作も足音もなく、男の目の前に「無表情の男」が立っていた。
「……え?」
「社長(ロイド様)の御前に、下品な鉄屑を持ち込むな」
秘書官クラウス。
彼が軽く手刀を振り抜いた瞬間、男が持っていた遠隔魔導具は、腕の装甲ごと綺麗に真っ二つに切断され、地面に転がり落ちた。
「なっ……!? き、貴様ら、ただの迷い込んだ民間人じゃねえのか!? 殺せ! そいつらを蜂の巣にしろ!!」
男の絶叫に呼応し、数十人のシンジケート構成員が一斉に魔導銃を構える。
だが、その銃口が火を噴くことは、永遠になかった。
「……クラウス。下がっていなさい」
背後から響いたその声は。
まるで絶対零度の氷底から響き渡るような、一切の感情を排した、底知れぬほどに冷たいものだった。
「ロイド、様……」
クラウスが静かに一歩下がる。
泥だらけのシャツを纏ったロイド・グランヴェルが、震える巨犬を背に庇うようにして、ゆっくりと立ち上がった。
いつもの、優雅で胡散臭いビジネススマイルは、そこにはない。
極上のモフモフを前にして歓喜に震える、変態的なまでの愛情も、ない。
そこにあったのは、世界を裏から支配する巨大財閥の特命代理としての、完全なる『破壊者の貌』だった。
「私の……大切な家族に、何をしてくれましたか?」
ロイドが一歩、泥を踏みしめて前へ出る。
たったそれだけで、荒野の空気が重く圧し掛かり、武装した男たちが本能的な恐怖で後ずさった。
「その子は今、ようやく絶望の底から顔を上げ、私に温もりを預けてくれたばかりなのですよ。……それを、よくも」
ロイドの周囲の空気が歪む。
凄まじい密度の魔力が、彼の怒りに呼応して大気を震わせていた。
「い、威勢がいいのは口だけだ! 撃て! そいつの背中の犬ごと撃ち殺せ!!」
「――万死に値しますね」
ロイドが、冷たい声で宣告した。
「ただ物理的に制圧するだけでは生ぬるい。あなた方のようなゴロツキを末端で飼い慣らし、国家の裏で甘い汁を吸っている『真の黒幕』の存在ごと、我がグランヴェル財閥の全権を以て、文字通り『この世から消去』して差し上げましょう」
ロイドは、優雅に、だが決定的な殺意を込めて指を鳴らした。
「クラウス。全員の身柄を拘束し、記憶と裏帳簿をすべて引きずり出しなさい。……一匹たりとも、逃すことは許しませんよ」
「御意」
最強の戦闘特科トップであるクラウスが、一切の感情を消した「仕事の顔」で泥を蹴る。
そして遥か上空では、ロイドの怒りに呼応するように、グランヴェル財閥が誇る超弩級魔導艦が、荒野を浄化するための圧倒的な光をチャージし始めていた。




