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第37話

 



 冷たい雨が打ち付ける泥だらけの荒野。


 あらゆる物理攻撃と魔法を弾き返す、グランヴェル財閥・最高峰の【完全抗呪(かんぜんこうじゅ)・環境適応スーツ】。

 その上着を泥水の中に放り投げたロイドは、薄手のオーダーメイドシャツ一枚という、あまりにも無防備な姿になっていた。


「……ロイド様っ!」


 普段は決して取り乱さない秘書官のクラウスが、鋭い声を上げる。


「危険です! 防御結界なしでその瘴気に触れれば、ただでは済みません! ましてや、神獣の一撃をまともに受ければ命に関わります!」


「手出しは無用ですよ、クラウス」


 ロイドは振り返らず、静かに片手を上げて制した。


「傷つき、すべてを拒絶している子に対し、絶対に傷つかない安全圏から手を差し伸べるなど……そんな傲慢な愛情が、伝わるはずもありません」


 ザァァァ……。


 氷のように冷たい雨が、ロイドの端正な顔を濡らし、純白のシャツを容赦なく泥の色に染めていく。

 だが、ロイドの足取りは止まらない。

 牙を剥き出しにして唸る巨大な神獣ガーディアン・ドッグへと、ゆっくりと、だが確実に歩み寄っていく。


『ガァァァァァッ!!』


 これ以上近づくなら殺す。

 巨犬が放つ強烈な殺気と瘴気が、物理的な突風となってロイドの体を打ち据えた。


 バシッ! という鈍い音が響き、ロイドの頬が僅かに切れ、一筋の血が流れる。

 防御結界がないため、瘴気の刃が直接その肌を裂いたのだ。


「――っ」


 クラウスが咄嗟に武器に手を掛けるが、ロイドの「待て」という強い視線に、ギリリと奥歯を噛み締めて踏み止まった。


 ロイドは、頬から流れる血を拭おうともしなかった。

 ただ、悲痛な叫びを上げる巨犬の目の前まで歩み寄り――。


 バシャッ。


 そのまま、冷たい泥の水たまりの中に、膝をついて座り込んだのだ。


『……グルゥ?』


 巨犬が、微かに困惑の声を漏らす。

 今まで自分を縛り付け、痛めつけてきた人間たちは、皆一様に自分を見下ろし、高圧的な態度をとってきた。

 自ら泥水の中に座り込み、自分よりも低い目線になる人間など、見たことがなかったからだ。


「痛かったですね。……辛かったですね」


 ロイドの声音は、冷たい雨の音にかき消されそうなほど、優しく、穏やかだった。


「その重い鎖で、ずっと冷たい雨に打たれて。……誰も信じられなくなるのも、当然です」


 ロイドは、震える手でゆっくりと巨犬の首元――皮膚に食い込む黒い鉄の鎖へと手を伸ばした。


『ガウッ!!』


 触れられることを極端に恐れた巨犬が、反射的にロイドの腕に噛み付こうと牙を立てる。

 しかし、牙が腕に触れる寸前で、ロイドが全く逃げようとしないことに気づき、ピタリと動きを止めた。


「噛みたければ、気が済むまで噛んでいいんですよ」


 ロイドは、雨に濡れて泥だらけになった顔で、ふわりと微笑んだ。

 いつもの、自信に満ち溢れた胡散臭いビジネススマイルではない。一人の人間としての、不器用で純粋な笑顔だった。


「ですが、私は逃げません。あなたのその鎖が外れるまで、ここでずっと、一緒に雨に濡れていますから」


 ロイドはそっと、巨犬の首を締め付ける冷たい鉄の鎖に手を添えた。

 引きちぎろうとするのではなく、その重さと冷たさを、少しでも自分が肩代わりするかのように。


 ザァァァ……。


 それから、どれほどの時間が経っただろうか。

 日が落ち、荒野は凍てつくような漆黒の闇と、絶え間ない冷雨に包まれた。


 ロイドは一歩も動かなかった。

 泥だらけになり、寒さで唇を紫色に震わせながらも、ただ静かに、巨犬のそばに座り続けた。

 時にはその泥だらけの被毛にそっと触れ、時には冷たい鎖を支えながら、静かな声で語りかけ続けた。


 自分の家族モフモフたちのこと。

 これまでに見てきた、美しい景色のこと。

 そして、これから一緒に見るはずの、温かくて平坦な日々のこと。


『……クゥン……』


 夜明け前。

 ずっとロイドを威嚇し続けていた巨犬の喉から、ふと、哀しげな鳴き声が漏れた。


 見上げると、巨犬を覆っていた黒い瘴気が、雨に洗われるように少しずつ薄らいでいる。

 そして巨犬は、疲れ果てたようにゆっくりとその巨大な体を泥の中に横たえ――自分の鼻先を、ロイドの震える膝の上に、そっと乗せたのだ。


「……ええ。いい子です」


 ロイドは、泥にまみれた巨大な頭を、愛おしそうに両手で包み込んだ。

 絶対零度の氷のように固く閉ざされていた神獣の心が、今、確かな温もりを伴って溶け始めた瞬間だった。




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