第33話
「ミャ、ミャァ……?」
大型飛空艇すらスクラップにする超圧縮のハリケーン猫パンチをそよ風のように無効化され、重力が狂った瓦礫の上を優雅に歩み寄ってくるロイドに対し、巨大な『雲の猫』は透き通った瞳を丸くして困惑していた。
この数年間、暴走する空中都市の機関室から漏れ出す不快な魔力ノイズに耐えながら、不気味な雲に擬態して孤独に漂流してきたというのに。目の前の人間から放たれる「異常なまでの愛情と安心感」に、張り詰めていた野生の警戒心がすっかり霧散してしまったのだ。
「さあ、まずはこれを。こんなホコリっぽい瓦礫の山では、喉が渇いてしまうでしょう」
ロイドは懐から、美しい装飾が施された気圧調整機能付きの魔法ケースを取り出した。
グランヴェル財閥の最高頭脳『研究開発部(R&D)』のエリートたちが、高高度の純粋魔素を特殊な遠心分離機で編み上げ、極上の香りを閉じ込めた『極上・天空マタタビ(綿飴仕立て)』である。
ケースを開けた瞬間、荒れ狂う暴風を上書きするような、甘く清涼感のある、猫を狂わせる極上の香りが広がった。
「ニャァァァ……!」
雲の猫の瞳から、完全に敵意が消え去った。
抗いがたい香りに誘われ、おそるおそる気体のような前足を伸ばしてマタタビ綿飴を受け取る。
シュワッ……とろぉん。
一口舐めた瞬間、口いっぱいに広がる極上の甘みと、全身の力が抜けるような多幸感。瓦礫の中で神経を尖らせていた幻獣は、開始三秒であっさりと陥落し、広場のくぼみに合わせて「ニャァゥゥ……(あまーい、とろけるにゃ……)」と完全に『液状化』して溶け込んだ。
「美味しいですか? 良かったです。では、少し失礼して……」
マタタビに夢中になって水たまり(雲たまり)のようになっている隙を突き、ロイドは両手を大きく広げた。
そして、神がかった手つきで、気体とも液体ともつかない不思議な雲の被毛に両腕を埋め込み、『極上のパン生地をこねるような神マッサージ』を開始したのである。
「素晴らしい……! 押せばふんわりと沈み込み、離せば水のようにしなやかに形を戻す! そしてこの、全身を包み込まれるような『圧倒的な浮遊感とひんやりとした湿度』……! ああ、まるで最高級の雲のウォーターベッドで泳いでいるようです!」
「……ロイド様。あまり激しくこね回すと、雲の猫様の体内に蓄積されていた静電気(雷雲)が放電して感電しますので、程々にしてください」
雷鳴が轟く暴風の中で狂喜乱舞しながら雲の海で泳ぐロイドと、それを無表情で見守るクラウス。
極上のおやつと、かつて味わったことのない至高の生地こねマッサージ。孤独な漂流生活から一転、天国のような心地よさに包まれた巨大な白猫は、すっかり警戒心を解き、ロイドの高級スーツに顔を擦り付けて「ゴロゴロゴロ……」と雷のような喉鳴りを響かせた。
「さあ、私と契約しましょう。三食昼寝、極上のマタタビ綿飴付き。完全防衛の広大な天空キャットタワーで、のんびり暮らすのです」
完全に骨抜きになった雲の猫に対し、ロイドは涼しい顔で一枚の特殊な羊皮紙――結露や湿気に完全対応した【修正版・魔法契約書】を取り出した。
「インクは不要です。ここに、その気体のような『肉球』をポンと乗せるだけで結構ですよ」
「ミャッ! ぽすんっ!」
愛らしい鳴き声と共に、雲の猫は自ら進んで実体のない前足を契約書に押し当てた。
すると、羊皮紙の上にヒンヤリとした『結露の跡(肉球の形)』が浮かび上がり、それが淡く光って契約が成立する。
『……んふぅ。お兄ちゃんの手、すっごくふかふかにゃー。もっとこねてにゃー』
「おや。なんともとろけるような、愛らしい声ですね。ええ、いくらでもこねて差し上げますよ」
液体のように間延びした無邪気な声(念話)が、ロイドとクラウスの脳内に響く。
「ロイド様。今回も無事に、念話は我々役員のみに届いております。世界中の出向社員の脳内に『猫のゴロゴロ音と甘え声』が響き渡って、全社員が昼寝のために液状化するという放送事故は免れました」
「ええ、我が社のコンプライアンスは完璧ですから」
足元で水たまりのように広がる巨大な雲の毛玉を抱きしめながら、ロイドは至福の笑みを浮かべた。
しかし、その超高級スーツは、気化した雲の切れ端と微細な水滴(蒸気)がびっしりと付着し、まるでロイド自身が薄霧に包まれた妖精のようなシュールな状態になっていた。
「……失礼します、ロイド様。動かないでください」
「ふふ、これぞ天空のモフモフの勲章ですよ、クラウ――って、シュワァァ、シュポンッて言いましたよ!?」
クラウスが無表情のまま取り出したのは、R&Dが開発した『強力粘着ローラー(気体・雲散対応ミクロコロコロ)』だった。
シュワァァ、シュポンッ! という、空間の気圧ごと微細な水滴を吸い上げるような未知の駆動音を立てて、ロイドのスーツから見事に雲の残滓を吸着・霧散させていく。
「な、なんて手際だ……我々が手も足も出なかったあの巨大な乱気流の化身を、たった一口の綿飴と素手でのマッサージで液状化させてしまうなんて……!」
呆然とする声に振り返ると、半壊した都市の機関室のハッチから、油と煤にまみれた作業着姿の男女が数名、腰を抜かして這い出してきたところだった。
彼らは、悪徳都市長に見捨てられながらも、「この都市が地上の国に落ちれば大惨事になる」と、決死の覚悟で機関室に残り、暴走を食い止めようとしていた『元の空中機関士たち』だった。
「おや。こんな瓦礫が降り注ぐ危険な場所で、ずっと都市の落下を防いでいたのですか」
ロイドはミクロコロコロをかけられながら、居住まいを正して彼らに向き直った。
「悪徳都市長に見捨てられながらも、地上の人々を守るためにこの都市の心臓部を保ち続けた。……その技術者としての誇り、高く評価いたします」
ロイドの言葉に、元の機関士たちはハッと息を呑み、そして大粒の涙を流した。
「今日から、あなた方を我が『ワケアリ不動産』の専属・天空キャットタワーの管理技師として再雇用してあげましょう。初任給は金貨十枚です。もちろん、この猫ちゃんの『生地こね係(危険手当)』もつきますよ」
「き、金貨十枚!? 一生遊んで暮らせるような月給じゃないか!」
「一生ついていきます、社長!!」
こうして、魔獣の保護と優秀な技術スタッフの確保は完了した。
ロイドは、雲の猫のひんやりとした体に沈み込みながら、瓦礫の山と化した幽霊都市を見渡す。
「クラウス。元・機関士たちの退避は完了しましたね?」
「はい、ロイド様。すでに全員を安全圏(輸送艦)へ避難させております」
「では――我が一族のお家芸を披露しましょうか。上空の魔導艦に合図を。この無価値な『都市のゴミ』だけを重力で綺麗に地上へ落とし、美しい『更地(空飛ぶ雲の浮遊大陸)』にします」
ロイドが優雅に指を鳴らした、その直後。
遥か上空の雲海から、建造物の瓦礫やゴミだけをピンポイントで分離し、安全な荒野へ投棄する極大の『超重力・建造物分離』が、空飛ぶ幽霊都市へと放たれた。




