第23話
「キュ、キュウゥ……?」
軍艦をも両断する超高水圧の波をあっさりと無効化され、荒れ狂う海の上を優雅に歩み寄ってくるロイドに対し、巨大な帝王ラッコは短い前足を口元に当てて困惑していた。
この数年間、不法投棄された過積載船から漏れ出す汚染物質から身を守りながら、孤独に魔の海域を漂ってきたというのに。目の前の人間から放たれる「異常なまでの愛情と安心感」に、張り詰めていた野生の警戒心がすっかり削がれてしまったのだ。
「さあ、まずはこれを。こんな冷たい海で、硬い鉄板ばかり叩いていては歯が立たないでしょう」
ロイドは懐から、美しい装飾が施された完全防水仕様の魔法ケースを取り出した。
グランヴェル財閥の最高頭脳『研究開発部(R&D)』のエリートたちが、深海の純粋魔力だけを抽出し、徹底的な温度管理のもとで培養した『極上・黄金魔力ウニ』である。
ケースを開けた瞬間、荒れ狂う磯の香りを上書きするほどの、濃厚で芳醇な海の幸の香りが広がった。
「キュイィィ……!」
帝王ラッコの黒らぶらとした瞳から、完全に敵意が消え去った。
抗いがたい香りに誘われ、おそるおそる短い前足を伸ばして巨大な黄金ウニを受け取ると、自分のお腹の上に乗せた装甲板に「コンコンッ!」と上手に打ち付ける。
パカッ、と見事に割れた殻の中から現れた、黄金色に輝く極上の身。
それを一口食べた瞬間――。
口いっぱいに広がる極上の甘みと、純度の高い魔力。冷たい海で魚ばかりを追いかけていた幻獣は、開始三秒であっさりと陥落し、波の間にぷかぷかと浮かびながら「キュァァァ……(あまーい、とろける……)」と幸せそうに頬を押さえた。
「美味しいですか? 良かったです。では、少し失礼して……」
黄金ウニに夢中になっている隙を突き、ロイドは懐から最高級の『撥水・獣毛コーム』を取り出した。
そして、神がかった手つきで、一平方センチメートルあたり数十万本という異常な密度で密集する「超高密度被毛」の間に指とコームを滑り込ませ、空気の層を作る『神業のグルーミング(毛繕い)』を開始したのである。
「素晴らしい……! 一切の水分を弾き返し、ふかふかの空気の層を溜め込んだ究極の防水性能! そしてこの、顔を埋めた時の『圧倒的な密着感』と、冷たい海の上にいるとは思えない『驚異の保温力』……! ああ、まるで最高級の防水ダウンジャケットに包まれているようです!」
「……ロイド様。あまり激しくグルーミングをすると、毛の間に溜まっていた塩水とウニの汁が飛び散りますので、程々にしてください」
大渦巻の中心で狂喜乱舞しながらモフモフの海に溺れるロイドと、それを無表情で見守るクラウス。
極上の海の幸と、かつて味わったことのない至高の毛繕い。孤独な漂流生活から一転、天国のような温もりに包まれた巨大ラッコは、すっかり警戒心を解き、ロイドの高級スーツにぽってりとした顔を擦り付けて甘え始めた。
「さあ、私と契約しましょう。三食昼寝、極上の新鮮な海の幸付き。完全防衛の広大な温水プール・リゾートで、のんびり暮らすのです」
完全に骨抜きになった巨大ラッコに対し、ロイドは涼しい顔で一枚の特殊な羊皮紙――完全防水コーティングが施された【修正版・魔法契約書】を取り出した。
「ここに、その愛らしい『おてて(肉球)』をポンと乗せるだけで結構ですよ」
「キュ! ……きゅっ」
愛らしい鳴き声と共に、巨大ラッコはロイドに向かって短い前足を差し出した。
しかし、スタンプを押すだけではない。ラッコは、荒波の中でロイドと自分が離れ離れにならないよう、その小さな両手でロイドの右手を『ぎゅっ』と固く握りしめたのだ。
海流で流されないように手と手を繋ぐ――ラッコ特有の、愛らしすぎる習性である。
ロイドの右手を握りしめたまま、そのぷにぷにの肉球が契約書に触れると、淡く光るマークが浮かび上がり、契約が成立した。
『……ウニ、おいしいのー。おてて、ぎゅっ。ながされないように、お兄ちゃんとずっと、ぎゅっ』
「おや。なんとも甘えん坊で、無邪気な声ですね。ええ、もう決してあなたを流させたりしませんよ」
あどけない幼児のような声(念話)が、ロイドとクラウスの脳内に響く。
「ロイド様。今回も無事に、念話は我々役員のみに届いております。世界中の出向社員の脳内に『ラッコのおててぎゅっ』が響き渡って、海軍の戦意が喪失するという放送事故は免れました」
「ええ、我が社のコンプライアンスは完璧ですから」
自分の手を握りしめて離さない巨大な毛玉を抱きしめながら、ロイドは至福の笑みを浮かべた。
しかし、その超高級スーツは、弾かれた海水と、磯の香りのする抜け毛で悲惨なことになっていた。
「……失礼します、ロイド様。動かないでください」
「ふふ、これぞ海の男の勲章ですよ、クラウ――って、ズギュッて言いましたよ!?」
クラウスが無表情のまま取り出したのは、R&Dが開発した『強力粘着ローラー(完全防水・超吸水・磯の香り対応版)』だった。
ズギュッ、キュポンッ! という、凄まじい吸引力で水分と汚れを吸い上げるシュールな音を立てて、ロイドのスーツから見事に海水と抜け毛を剥ぎ取っていく。
「さて……」
コロコロをかけられながら、ロイドは居住まいを正し、海面の下――暗く濁った海底を見下ろした。
そこには、悪徳ギルドが不法に沈めた無数の過積載船と、莫大な「隠し資産」が眠っている。
「クラウス。ラッコちゃんの保護と、安全圏への退避は完了しましたね?」
「はい、ロイド様。すでに上空の輸送艦へ誘導しております」
「では――我が一族のお家芸を披露しましょうか。上空の魔導艦に合図を。この無価値な『荒れ狂う海』を真っ二つに割り、美しい『更地(海底の平地)』にします」
ロイドが優雅に指を鳴らした、その直後。
遥か上空の雲海から、海という概念そのものを両断する、極大の『超広域・モーゼの海割り』が、魔の海域へと放たれた。




