第6話「王を殺した王」
数日前、セトが私の部屋を訪れた。
夜更けのことだった。
「……来い」
短い一言。
私は外套を羽織り、後を追った。
⸻
神殿の倉庫。
人目につかない場所。
そこに、一つの棺桶が置かれていた。
「これが?」
「ああ」
セトは、棺桶の蓋を指差した。
「内側に、細工がある」
私は近づき、蓋の裏を見た。
――香。
甘い匂いがする。
でも、これは普通の香じゃない。
「……毒?」
「おそらく」
セトは、低く答えた。
「密閉された空間で焚けば、 確実に殺せる」
胸が、冷たくなった。
「誰が?」
「神殿の異分子」
セトは、棺桶の縁を叩いた。
「ラーは知らない。 だが、神殿内の過激派が動いてる」
「……いつ?」
「宴の日」
私は、息を呑んだ。
「防げるの?」
「防げる」
セトは、即答した。
「だが――」
彼は、私を見た。
「防げば、別の形で来る」
その言葉が、胸に刺さった。
――そうだ。
世界は、「王の死」を求めている。
止めれば、 もっと残酷な形で起きる。
「……どうする?」
私は、静かに尋ねた。
セトは、しばらく黙っていた。
やがて、低く言った。
「兄上に、聞け」
⸻
その夜。
私は、オシリスの部屋を訪れた。
ノックをする。
返事はなかった。
でも、扉は開いていた。
「……失礼します」
部屋に入ると、 オシリスは窓辺に立っていた。
月明かりを浴びて、 その背中は、どこか小さく見えた。
「ネフティス、か」
振り返らずに、言った。
「……はい」
「何の用だ」
冷たい声。
私は、一歩前に出た。
「お話があります」
「……」
オシリスは、ようやく振り返った。
その顔は、疲れていた。
目の下に影。 乾いた唇。 痩せた頬。
八年ぶりに見る顔は、 まるで別人のようだった。
「話?」
オシリスは、低く笑った。
「お前が、俺に?」
その声には、皮肉が滲んでいた。
私は、視線を逸らさなかった。
「……暗殺計画があります」
オシリスの目が、わずかに動いた。
「何?」
「棺桶に、仕掛けが」
私は、はっきりと言った。
「宴で、あなたが棺桶に入ったとき、 密閉された空間で毒香が焚かれます」
オシリスは、何も言わなかった。
ただ、私を見ている。
「セトが、掴みました」
その名前を出した瞬間、 オシリスの目が、わずかに曇った。
「……セトが」
「はい」
「あいつが、俺を守ると?」
その声には、自嘲が混じっていた。
「……はい」
オシリスは、窓の外を見た。
「笑えるな」
ぽつりと呟く。
「兄に、妻を寝取られた男が、その兄を守る」
私は、何も言えなかった。
「ネフティス」
オシリスが、静かに言った。
「お前は、なぜここに来た?」
「……」
「罪悪感か?」
「それとも――」
彼は、私を見た。
「また、俺を騙すためか?」
その言葉が、胸に刺さった。
私は、深く息を吸った。
「……どちらでもありません」
「では?」
「選んでほしいんです」
オシリスの眉が、わずかに動く。
「選ぶ?」
「はい」
私は、一歩近づいた。
「暗殺は、防げます。 セトが動けば、阻止できる」
「……」
「でも――」
私は、続けた。
「防げば、別の形で来ます。 もっと、残酷な形で」
オシリスは、目を閉じた。
「……そうか」
それだけ。
「だから、選択肢があります」
私は、はっきりと言った。
「一つは、暗殺を防ぐ。 でも、それは火種を残す。
もう一つは――」
言葉が、喉に詰まる。
「死んだことにする」
オシリスが、目を開けた。
「……偽装死、か」
「はい」
「棺桶には偽物を入れる。 あなたは、別の場所へ」
オシリスは、長い沈黙の後、 低く笑った。
「面白い」
皮肉な声。
「俺は、逃げろと?」
「……」
「王を捨てて、 隠れて生きろと?」
その言葉には、怒りではなく、 どこか諦めが混じっていた。
「……はい」
私は、頷いた。
オシリスは、窓辺へ戻った。
「ネフティス」
背を向けたまま、言った。
「俺は、疲れた」
その声が、震えていた。
「正しい王でいることに」
私は、息を呑んだ。
「毎日、完璧を求められる。 誰も文句を言わせない統治。 公平で、正しく、揺るがない王」
オシリスは、拳を握った。
「でも、俺は人間だ」
「……」
「お前を抱いた。 イシスを裏切った。 セトと向き合えない」
彼は、振り返った。
その目には、涙はなかった。
ただ、深い疲労だけがあった。
「俺は、もう王でいたいとは思えない」
その告白が、胸を貫いた。
「……でも」
オシリスは、続けた。
「無責任に死ぬこともできない」
「国が、混乱する」
「セトが、責められる」
「イシスが、泣く」
彼は、小さく笑った。
「だから、どうすればいいか、 わからなかった」
私は、一歩近づいた。
「だから――」
声が、震える。
「選んでほしいんです」
「死ぬのではなく、 死んだことにする」
「王ではなく、 人として生きる」
オシリスは、私を見た。
「……それは、楽か?」
「わかりません」
正直に答える。
「でも、あなたが選べる道です」
沈黙。
やがて、オシリスは深く息を吐いた。
「……セトは、何と?」
「呼びましょうか?」
「……ああ」
⸻
数分後。
セトが部屋に入ってきた。
オシリスとセトが、 向かい合う。
久しぶりの、対面。
「……兄上」
セトが、短く言った。
「セト」
オシリスも、答える。
二人の間に、重い空気が流れた。
「聞いた」
オシリスが、先に口を開いた。
「暗殺計画」
「……ああ」
「お前が、防げるのか?」
「防げる」
セトは、即答した。
「だが――」
「別の形で来る、と」
オシリスは、苦笑した。
「ネフティスも、同じことを言った」
「……」
「で?」
オシリスは、セトを見た。
「お前は、どうしたい?」
セトは、しばらく黙っていた。
やがて、低く言った。
「兄上が、生きていてくれれば、 それでいい」
その言葉に、 オシリスの目が、わずかに揺れた。
「……お前」
「だが」
セトは、続けた。
「王としては、死んでもらう」
「……」
「俺が、王になる」
「王殺しとして、な」
オシリスは、息を呑んだ。
「……お前、それを」
「受け入れる」
セトは、真っ直ぐ言った。
「それが、この国を守る道なら」
沈黙。
長い、沈黙。
やがて、オシリスが小さく笑った。
「……お前、 本当に弟か?」
「兄上こそ」
セトは、少し笑った。
「本当に兄か?」
二人の間に、 何かが流れた。
憎しみでも、愛でもない。
ただ――理解。
「……わかった」
オシリスが、静かに言った。
「俺は、死ぬ」
「王として」
彼は、私を見た。
「でも、人としては生きる」
私は、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「礼を言うな」
オシリスは、窓の外を見た。
「俺は、逃げるだけだ」
⸻
宴の日。
船は、夕暮れの光を浴びて輝いていた。
金色の飾り。 色とりどりの旗。 花と香の匂い。
誰もが、笑顔だった。
「おとうさま!」
アヌビスが、イシスの手を引いて走ってくる。
新しい正装を着た、小さな背中。
オシリスは、優しく微笑んだ。
「どうした、アヌビス」
「ふね、おおきい!」
「ああ、大きいな」
オシリスは、アヌビスの頭を撫でた。
その手が、わずかに震えているのを、 私は見逃さなかった。
(……最後の、触れ合い)
胸が、きしむ。
イシスは、少し離れた場所から、 静かに見ていた。
彼女は、知っている。
すべてを。
昨夜、私が話した。
「あなたの夫を、助けてください」
「でも、王妃としては、 王を失ってください」
イシスは、何も言わなかった。
ただ、静かに頷いた。
⸻
船が出る。
ゆっくりと、川を滑る。
甲板には、貴族、神官、将軍。
誰もが、杯を手に、 王を称えている。
「オシリス王、万歳!」
「豊穣の王!」
「永遠なれ!」
オシリスは、微笑んで手を振った。
完璧な、王の顔。
でも私には見えた。
その目の奥に、 静かな諦めがあることを。
⸻
宴が進む。
音楽が鳴り、 踊り子が舞い、 酒が注がれる。
そして――
中央に、棺桶が運ばれてきた。
黄金色に輝く、美しい棺桶。
「これは、再生の象徴!」
神官が、声高に言った。
「王が棺桶に入り、 そして蘇る!
それが、豊穣の約束!」
拍手と歓声。
オシリスは、立ち上がった。
「では、入ろう」
軽い口調。
誰も疑わない。
私は、遠くから見ていた。
心臓が、激しく鳴る。
(……頼む)
(……うまくいって)
オシリスが、棺桶に近づく。
セトが、さりげなく近衛兵を配置する。
イシスは、微笑んでいるが、 手が、わずかに震えている。
オシリスが、棺桶の中を覗き込んだ。
一瞬、彼の目が、 セトと合う。
無言の、合図。
そして――
オシリスが、棺桶に入った。
「おお!」
歓声が上がる。
蓋が閉められる。
カチリ、と音がする。
封印。
私は、息を止めた。
(……今)
セトが、わずかに手を上げる。
それが、合図。
近衛兵が、静かに動く。
棺桶が、別の場所へ運ばれる。
誰も気づかない。
音楽と歓声にかき消されて。
数分後。
再び棺桶が運ばれてくる。
見た目は、同じ。
でも、中身は――
空。
いや、偽物が入っている。
重りと、王の装束。
「では、川へ!」
神官が叫ぶ。
棺桶が、船の端へ運ばれる。
そして――
ドボン。
水音。
棺桶が、川に浮かぶ。
ゆっくりと、流れていく。
「おお!」
「王は、再生する!」
「必ず、戻ってくる!」
歓声。
でも、その時――
轟音。
船の後方で、爆発が起きた。
火柱が上がる。
「火事だ!」
「消せ!」
混乱。
人々が、後方へ殺到する。
その隙に。
棺桶が、視界から消えた。
川の流れに呑まれ、 遠くへ。
私は、遠くの岸辺を見た。
そこに、小さな影が二つ。
セトの部下。
棺桶を、回収している。
(……成功した)
安堵と、
同時に。
激しい喪失感が、襲ってきた。
⸻
火事は、すぐに消し止められた。
大した被害はない。
でも、混乱は残った。
「棺桶は?」
「流された!」
「王は?」
「戻っていない!」
ざわめき。
イシスが、立ち上がった。
「……探しなさい」
静かな声。
でも、その声は震えていた。
「王を、探して」
近衛兵が、動く。
川を、下流へ。
でも――
見つからない。
棺桶は、消えた。
⸻
夜が更ける。
船は、静かに港へ戻った。
誰も、笑っていなかった。
アヌビスは、イシスにしがみついて泣いていた。
「おとうさま……」
「おとうさま、どこ……」
イシスは、何も言わなかった。
ただ、子を抱きしめている。
その目には、涙はなかった。
でも、どこか遠くを見ていた。
私は、一人、船の端に立っていた。
川を見つめる。
月明かりが、水面を照らしている。
(……オシリス様)
(……あなたは、今どこに)
風が、髪を撫でる。
遠くで、セトの声が聞こえた。
「……探せ」
「王を、探せ」
演技。
完璧な、演技。
誰も疑わない。
王弟セトが、 兄を探している。
でも、見つからない。
そして――
数日後。
トトが、記録した。
「オシリス王、崩御」
「棺桶の儀式にて、行方不明」
「王弟セト、摂政として即位」
それが、公式の記録になった。
⸻
私は、一人、庭に立っていた。
あの日から、数日。
王宮は、静かだった。
喪に服す、静けさ。
でも、裏では確実に動いている。
セトが、王座に座った。
イシスが、王妃として統治を支えている。
アヌビスは、まだ泣いている。
そして、オシリスは――
生きている。
王たちの眠りを預かる神殿の、最奥で。
誰にも知られず。
私は、小さく呟いた。
「……ごめんなさい」
誰に向けた言葉かは、 自分でもわからなかった。
オシリスに。
イシスに。
セトに。
アヌビスに。
それとも――
自分自身に。
風が、花を揺らす。
世界は、何も変わっていないように見えた。
でも、確実に。
歴史が、動いた。
王は、死んだ。
王殺しが、生まれた。
そして――
神話が、始まった。




