第5話「影で育つ子」
陣痛が始まる前の夜。 私は、一人執務室に呼ばれた。
「……来たか」 セトは窓辺に立ち、背を向けたまま言った。
「はい」
「……もうすぐ、産まれる」 「ああ」
沈黙。
やがて、セトは振り返った。
「表向きは、イシスが引き取る」
「……はい」
「お前が産んだことは、王宮でも秘匿する」
セトは、静かに言った。
「噂になれば、アペプが動く」
私は、頷いた。
「わかっています」
「俺は"知らない"ことにする」
でも、と続ける。
「たまに、様子は見る」
その言葉が、胸に響いた。
愛してはいない。 でも、守る。
それが、セトという男だった。
⸻
アヌビスは、静かな朝に生まれた。
場所は、王宮から離れた離宮。 療養を名目に、私はここで数ヶ月を過ごしていた。
産声は小さく、でもはっきりしていた。
「……男の子です」 女医の声が、部屋に響く。
私は汗に濡れた髪をかきあげ、腕の中の小さな命を見つめた。
黒い髪。 閉じた瞼。 小さな拳。
――推し。
別の世界の記憶が、胸の奥で叫ぶ。
これが、アヌビス。 神話で、誰よりも孤独だった子。
でも今回は違う。 私が、守る。
「……おめでとう」 イシスが、そっと声をかけた。
彼女は部屋の端に立ち、静かに見守っていた。
「ありがとう、姉上」
イシスは、ゆっくりと近づいてきた。
「……見せて」
私は、迷わず差し出した。
イシスが、赤子を抱き上げる。 その動作は、驚くほど慣れていた。
まるで、ずっと待っていたかのように。
「……軽いわね」 イシスが、小さく笑う。
「でも、しっかりしてる」
彼女は、赤子の顔を見つめた。
その目に、確かな愛情が宿っている。
「これから、この子は私が育てる」
イシスが、静かに言った。
「表向きは、遠縁の孤児。私が引き取った子」
私は、頷いた。
「……はい」
「あなたは、"少し距離のある叔母"を演じなさい」
その言葉が、胸に刺さる。
「愛情を見せすぎると、疑われる」
イシスは、私を見た。
「でも、影で愛せばいい」
彼女は、赤子を私に戻した。
「今日だけは、あなたの子よ。明日からは、私たち二人の子」
私は、何も言えなかった。 ただ、頷くことしかできなかった。
⸻
それから数日後。 王宮に、公式発表があった。
「王妃イシス様が、遠縁の孤児を引き取られた」
民は、それを「慈悲深い」と称えた。 誰も疑わない。 疑う理由がない。
私も王宮に戻り、遠くからその発表を聞いていた。
胸の奥が、きしむ。
(……これでいい)
自分に言い聞かせる。
これが、アヌビスを守る道。 アペプから。 政治から。 神話の残酷な運命から。
⸻
生後一ヶ月。
オシリスは、ある夜、妻の部屋を訪れた。
「……見せてくれるか」
イシスは、静かに頷いた。
揺り籠の中で、小さな命が眠っている。
オシリスは、息を呑んだ。
黒い髪。 小さな拳。
(……私の、子)
イシスから聞いていた。 この子が、自分の子であること。
――守るために、王として知るべきだと。
罪悪感と、それでも溢れ出る愛情。
「……触れてもいいか」
イシスは、微笑んだ。
「あなたの子よ」
オシリスは、そっと指を差し出した。
小さな手が、それを掴む。
――温かい。
この子は、確かに生きている。 自分の血を引いて。
「……名は?」
「アヌビス」
イシスが答える。
「いい名だ」
オシリスは、目を閉じた。
父としては名乗れない。 王としても、公には認められない。
でも――この子を愛していることだけは、本当だった。
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私は、遠くの回廊から、オシリスが部屋を出るのを見ていた。
その背中は、どこか重そうだった。
(……ありがとう)
心の中で呟く。
あなたは、罪悪感を抱えながらも、この子を愛してくれる。
それだけで――
⸻
それから数日後。
オシリスは、王都を発った。
豊穣を祈るため。 治水を視察するため。 民に顔を見せるため。
表向きは、どれも正しい。
けれど私は思った。
――きっと、見るのが辛いのだ。
イシスの腕の中で眠る子。 その子に向けられる、自分の感情。
罪悪感と、愛情と、後悔。
それらを抱えたまま王でいるのは、あの人には、少しだけ重すぎる。
だから、逃げた。 正しい理由をつけて。
彼は出立の前、回廊で足を止めた。 扉の向こうから、子の寝息が聞こえていた。 オシリス様は、扉に触れなかった。 触れたら、王のままでいられなくなる――そう見えた。 それが私の勝手な解釈でも、間違っていない気がした。
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平穏は、罠のように静かだった。
オシリスが去り、国はイシスの手に委ねられた。
彼女は、完璧だった。
裁定は速く、正確だった。 不正は切り捨て、慈悲は示す。 誰もが「正しい王妃」と呼び、その声に、嘘はなかった。
彼女は、朝は裁定の席に座り、昼は神殿の要請を捌き、夕刻には配給と徴税の帳面を揃えた。 誰かの嘆願を聞いても、泣いてはくれない。 代わりに、次の日には必ず「現実」が動いている。 それが、王妃の仕事だった。
それでも夜になると、彼女は必ず子のもとへ行った。
「おかあさま」
その呼び声が聞こえるたび、胸の奥が、少しだけ痛んだ。
⸻
アヌビスは、静かに育った。
泣くことは少なく、いつも何かを見ている子だった。
イシスは完璧な母を演じ、セトは遠くから"監視"だけしていた。
そして私は。
――触れない。呼ばれない。呼びかけない。
影から見ているだけだった。
廊下で会っても、軽く微笑むだけ。 庭で遊ぶ姿を見かけても、立ち止まらない。
抱きしめたい。 声をかけたい。
でも、できない。
それが、「叔母」として生きるということ。
⸻
その頃、私とセトは、影で動いていた。
言葉を交わさない日も多かった。 でも、必要なときには必ず分かった。
私は、女房衆の耳を借りた。 井戸端の噂は軽い。 でも軽い噂ほど、重い真実に繋がっている。
女官の噂。 洗濯場の囁き。 香油の注文。 食料の動き。
そういう"女の手触り"を辿ると、必ず、夜に消える名前が浮かび上がる。
数日後には、その名前はどこにも残らない。
それでも、不穏は減らなかった。
一人消えれば、また別の誰かが現れる。 まるで、席が空くのを待っていたかのように。
「……おかしいわね」
ある夜、そう呟いた私に、セトは短く答えただけだった。
「数じゃない」
それ以上、彼は言わなかった。 でも、その言葉だけで十分だった。
数を潰しても意味がない。 これは、人ではなく、流れだ。
「誰が、次を入れてる」 私が呟くと、セトは鼻で笑った。 「神殿だ」 それだけ。 確証を言わないのに、胃が冷えた。 神殿が"祈り"の名で人を集めるなら、席は無限に作れる。
⸻
オシリスの統治は、完璧だった。
正しく、公平で、誰も文句をつけられない。
だからこそ。
古い権威は失われ、不正な利権は潰され、「秩序の外」にいた者たちの居場所が、なくなった。
秩序は光。 だが光が強すぎると、影もまた濃くなる。
アペプは、その影に座る「席」。 名乗れば座れる。 空けば誰かが座る。
人ではない。 役職だ。
だから減らない。
私は、ようやく理解し始めていた。
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アヌビスが三歳になった頃。
彼は、言葉を覚え始めた。
「おかあさま」
イシスを、そう呼ぶ。
私は、遠くからそれを聞いた。
胸が、締め付けられる。
でも、それでいい。 それが、正しい。
⸻
ある日、セトがアヌビスの前に現れた。
庭で遊んでいるアヌビスの前に、大きな影が落ちる。
アヌビスは、びくりと身を強張らせた。
「……怖い王弟」。 王宮の誰もが、そう呼ぶ男。
でも。
セトは、ゆっくりと膝をついた。
目線を、アヌビスに合わせる。
「……お前が、アヌビスか」
低い声。
アヌビスは、黙って頷いた。
セトは、少し考え込む。
(……この子は、兄上の子だ) (でも、守らなければならない)
懐から、何かを取り出した。
小さな、木彫りの犬。
昔、自分が子供の頃に作ったもの。 誰にもあげたことがなかった。
「……これ、やる」
ぶっきらぼうに差し出す。
アヌビスは、恐る恐る受け取った。
「……ありがとう」
小さな声。
セトは、少し笑った。
「……似てるな」
兄に。 でも、それ以上に――守らなければならない、小さな命に。
「え?」
「いや、何でもない」
セトは立ち上がり、去っていった。
アヌビスは、木彫りの犬を見つめた。
(……おじさん、優しい)
子供の直感が、そう告げた。
⸻
私は、その光景を遠くから見ていた。
胸が、熱くなる。
(……ありがとう、セト)
あなたは、愛していない妻の、他人の子を、それでも気にかけてくれる。
⸻
ある年、穀倉庫が燃えた。
夜明け前のことで、私は現場には近づかなかった。
女官たちの声だけが、耳に入る。
「……場所が、悪すぎます」 「王都用の倉です」 「偶然とは……」
イシスは、淡々と処理した。
被害は最小限。 責任者は処罰。 民への配給は滞らせない。
完璧だった。
でもその夜、また一つ、名前が消えた。
翌朝、焦げ跡のそばで、焼け残った縄が一本だけ見つかった。 それは、倉の扉を"外から"縛るための結び方だった。 ただの事故じゃない。 そう告げられている気がした。
⸻
別の年には、神殿で問題が起きた。
寄進帳の数字が合わない。 祈祷の文言が、微妙に違う。
「ラー様も、お年ですから」
そう言って笑った大臣の声を、私は柱の影で聞いた。
笑顔だった。 朗らかで、正しそうで、だからこそ、気持ちが悪かった。
その大臣は、ラー様の名を口にする時だけ、声が甘くなる。 「太陽は巡るのです」 「世代もまた、巡る」 祈りの形をした言葉で、権力の椅子を運んでいる。 私は、そういう笑顔を何度も見てきた。
その件も、表では穏便に収まった。 裏では、静かに片付いた。
それでも、不穏は続いた。
「最近、消え方が妙だ」 柱の陰で、誰かが小声で言った。 「誰がやってる? 俺たちは、誰に狩られてる?」 その声が震えていたのを、私は忘れない。
平穏な国だった。 飢えもなく、戦もなく、王も正しい。
それなのに、なぜ。
⸻
アヌビスが五歳になった頃。
彼は、ある日イシスに尋ねた。
「おかあさま」
「なあに?」
「ネフティスさま、やさしいね」
イシスの手が、一瞬止まった。
「……そうね」
「でも、あんまりお話ししてくれない」
アヌビスは、首を傾げる。
「ぼく、きらわれてる?」
イシスは、胸が痛んだ。
「違うわ」
優しく、髪を撫でる。
「あの方は……不器用なの」
「ふきよう?」
「ええ」
イシスは、微笑んだ。
「本当は、あなたのことを、とても気にかけてる」
アヌビスは、嬉しそうに笑った。
「そうなの?」
「ええ」
イシスは、静かに頷いた。
(……ごめんなさい、ネフティス)
心の中で謝る。
あなたは、本当は抱きしめたいはずなのに。
⸻
――初めて、影が牙を剥いた。
アヌビスが六歳の夏。
事件が起きた。
「アヌビス様が、行方不明です!」
王宮が、騒然となった。
イシスは血の気が引き、近衛兵が総動員され、セトは――
「……俺が探す」
一言だけ残して、走り出した。
私も、後を追った。
(……どこ!)
心臓が、激しく鳴る。
廊下を走り、庭を抜け、古い貯水池の方へ。
――そこに、小さな影が見えた。
水際の砂に、細い足跡が二つあった。 一つは、子のもの。 もう一つは――大人のものだ。 私は、その跡を踏まないように息を止めた。
「……アヌビス!」
私は、駆け寄った。
アヌビスは、水際に座り込んで、泣いていた。
「ネフティスさま……」
「大丈夫、怪我は?」
私は、必死で体を確認する。
擦り傷がある。 でも、大事には至っていない。
「……こわかった」
アヌビスは、私にしがみついた。
その瞬間――
胸の奥の鍵が、音を立てて外れた。
「叔母」の顔が、役目ごと崩れた。
「もう、大丈夫」
私は、強く抱きしめた。
「ここにいるから」
――その時。
足音。
振り返ると、セトがいた。
――見た。だが、裁かない。
彼は、何も言わなかった。
ただ、静かに頷いた。
「……連れて帰れ」
それだけ言って、先に戻っていった。
私は、アヌビスを抱き上げた。
(……ありがとう)
心の中で呟く。
この一瞬だけは、母でいさせてくれて。
⸻
王宮に戻ると、イシスが駆け寄ってきた。
「アヌビス!」
彼女は、私の腕からアヌビスを受け取る。
「怪我は?」
「少し擦りむいただけです」
私は、静かに答えた。
イシスは、深く息を吐いた。
「……ありがとう、ネフティス」
その言葉が、胸に染みた。
私は、ただ頷いた。
「当然のことです」
それだけ言って、その場を離れた。
振り返らない。
振り返ったら、涙が溢れそうだった。
⸻
アヌビスが七歳になった頃。
彼は、ある日私に話しかけてきた。
廊下で、偶然会った時。
「ネフティスさま」
小さな声。
私は、足を止めた。
「……何かしら、アヌビス」
優しく、でも距離を保って。
「あのね」
アヌビスは、何かを差し出した。
薄い紙で作った、小さな花。
「これ、あげる」
私は、息を呑んだ。
「……どうして?」
「だって」
アヌビスは、少し照れくさそうに笑った。
「ネフティスさま、やさしい目で見てくれるから」
胸が、熱くなった。
私は、膝をついた。
「……ありがとう」
そっと、受け取る。
「大切にするわ」
「ほんと?」
「ええ」
私は、そっと頭を撫でた。
一瞬だけ。
誰にも気づかれないように。
「……いい子ね」
その言葉だけ残して、私は立ち去った。
胸が、締め付けられる。
手の中の紙の花が、小さく震えていた。
⸻
アヌビスが八歳になった頃。
彼は、もう立派な少年だった。
賢く、静かで、誰の言葉もよく聞く。
でも、どこか孤独だった。
ある日、アヌビスはイシスに尋ねた。
「おかあさま」
「なあに?」
「ぼく、ほんとうは、どこからきたの?」
イシスは、静かに答えた。
「遠い土地よ」
「……おとうさまと、おかあさまは?」
「もう、いない」
嘘をついた。
「でも」
イシスは、アヌビスを抱きしめた。
「私は、あなたを愛してる。それだけは、本当よ」
アヌビスは、それ以上聞かなかった。
アヌビスは、聞いてはいけない"沈黙"の匂いを嗅ぎ取った。
⸻
――"神話"が、予定を取り戻しに来た。
その年の夏。
王宮に、一つの知らせが届いた。
「オシリス王が、ご帰還なさいます」
八年ぶりの、帰還。
豊穣の祈願を成就し、各地で民に顔を見せ、正しい王として戻ってくる。
「帰還を祝う宴を、船上にて執り行います」
華やかな声。
私は、その知らせを聞いた瞬間、全身の血が冷えるのを感じた。
ついに、来た。
八年間、必死で積み上げてきた日常が、終わる日。
私は、遠くの庭を見た。
そこには、アヌビスがいた。
一人で、花に水をやっている。
その小さな背中を見ながら、私は強く思った。
(……守る)
これから起こることは、止められない。
オシリスは"死に"、セトは王殺しになり、世界は神話通りに進む。
でも。
あなたの心だけは、壊させない。
私は、静かに決意した。
⸻
祭りの準備が始まった。
王宮は、華やかに飾られる。
誰もが、笑顔だった。
誰も、これが「終わりの始まり」だとは、気づいていない。
数日前から、王宮には木の匂いが漂っていた。 船大工の釘の音。 塗料の甘い臭い。 運び込まれる大きな箱。 誰も「棺」とは言わない。 言わないことで、存在を消せると思っている。
アヌビスも、新しい正装を仕立ててもらい、少し嬉しそうだった。
「ぼく、ふねにのれるの?」
イシスに尋ねる。
「ええ」
イシスは、優しく微笑んだ。
「あなたも、一緒よ」
アヌビスは、嬉しそうに頷いた。
まだ、何も知らない。
これから、父が"死ぬ"ことも。
叔父が、"王殺し"になることも。
世界が、一夜で変わることも。
私は、その笑顔を見ながら、胸が締め付けられた。
(……ごめんね)
でも、止められない。
⸻
祭りの前夜。
私は、一人で庭に立っていた。
月が、明るい。
その光の中で、私は小さく呟いた。
「……明日から、すべてが変わる」
風が、髪を撫でる。
遠くで、アヌビスの笑い声が聞こえた。
イシスと、何か話している。
その声が、まだ無邪気で、明るくて。
(……あと少しだけ)
あと少しだけ、その笑顔を守りたい。
でも、明日には――
私は、目を閉じた。
歴史が、動き始める。




