第3話「姉イシスという絶対正義」
イシスは、王宮で最も"正しい"人だ。
それは称号でも評判でもない。 この国の秩序そのものが、彼女の形を借りて歩いている――そう言っていい。
冷静で、聡明で、感情に溺れない。 必要な判断を、最短距離で下す。 誤差も、慰めも、余白もない。
後世、彼女は「魔術の女神」として祀られる。 でも今の彼女に必要なのは、魔術ではない。 完璧な理性だ。
だからこそ――怖い。
(……そんな相手に、私は、何を言いに来たんだ)
セトの執務室を出てから、 私はまっすぐ姉の部屋へ向かった。
逃げたら、 全てが崩れる。
回廊を歩くたび、胃がひっくり返りそうになった。
昨夜の不貞。 姉への裏切り。 義兄への詐欺。
吐き気がするほどの自己嫌悪が、喉の奥で粘る。
それでも、足を止めない。
ここで沈黙したら、 神話は"凄惨な復讐劇"へ突き進む。
セトは孤独な王殺しになり、 イシスは復讐者に変貌し、 オシリスは死ぬ。
そして私は―― 推しを産む代わりに、全員の心を壊す。
(……そんな結末、許すわけない)
前世の私は、歴史好きだった。 正史主義の、神話オタク。
改変は好きじゃない。 でも――
心まで、筋書き通りに壊す必要はない。
私は扉の前で息を整え、 拳を作ってから叩いた。
「ネフティスです。……姉様、お時間をください」
一拍。
扉の向こうから、静かな声。
「……入りなさい」
⸻
扉の向こうは、整然としていた。
書類は過不足なく整い、 香は控えめで、 光の入り方まで計算されている。
余計な装飾がない。 必要なものだけが並んでいる。
ここは、 感情が主役になれない場所。
理性の聖域だ。
イシスは机に向かい、 パピルスに目を通していた。
私が入っても、 すぐには顔を上げない。
その無言の数秒が、 私の皮膚を剥いでいく。
「座りなさい。顔色が悪いわよ、ネフティス」
ようやく上げられた視線は、 澄んだ水みたいに冷たかった。
優しいのに、逃げ道がない。
――この人は、知らない。
昨夜のことも、 私の中身も、 これから起こる惨劇も。
ネフティスとしての私は、 ずっと彼女を羨ましく思っていた。
完璧な姉。 美しく、聡明で、 オシリス様と並んで立つにふさわしい女性。
嫉妬と尊敬。 憧れと劣等感。
それが、姉妹の間にあった感情だった。
そして昨夜―― 私は、その姉を裏切った。
(……ごめんなさい、姉上)
心の中で謝る。
でも、声には出せない。
私は椅子を勧められる前に口を開いた。
「座る前に……先に言います」
イシスの眉が、ほんのわずかに動く。
その"わずか"が怖い。 正しい人ほど、微細な変化が致命傷になる。
「私は、隠し事をしに来たんじゃありません」
空気が変わった。
「……続きをどうぞ」
私は椅子に腰を下ろさない。 立ったまま、背筋を伸ばす。
ここで一度でも卑怯に逃げたら、 私は自分を許せなくなる。
「姉上。昨夜、私は――」
喉が焼ける。
それでも言う。
「オシリス様と、過ちを犯しました」
一瞬。
部屋から音が消えた。
衣擦れも、呼吸も、 遠くの鳥の声さえ。
イシスの顔から感情が抜け落ちる。
怒りでも悲しみでもない。
ただ、理解だけが先に走る。
「……それは」
「言い訳はしません」
私は、はっきりと言った。
「酔ってたとか、勘違いしたとか、 そういう話にするつもりもありません」
視線を逸らさない。
「私は姉上に化けて、オシリス様の寝所に入りました。 彼は私を姉上だと信じた。 私は、そのまま――否定しませんでした」
言った。 言い切った。
今さら、綺麗にする道はない。
イシスは、ゆっくりと書類を閉じた。
立ち上がり、窓辺へ向かう。
背中が、きれいに真っ直ぐだ。
折れない背中。 折らない背中。
――泣かない。
怒鳴らない。
そういう女ほど、いちばん怖い。
「……それで?」
背を向けたまま、問いが落ちてきた。
私は息を吸った。
「私は、妊娠する可能性があります」
イシスの肩が、ぴくりと動く。
私は続けた。
「もし宿れば――その子は、アヌビスと呼ばれる存在になります」
振り返る視線が、刃になった。
「ずいぶん、具体的な名を出すのね」
来た。
ここからが本番だ。
「私は、この世界の未来を知っています」
イシスは否定しない。
笑いもしない。
ただ、"話の値踏み"を始めた顔になる。
――さすがだ。
この人は、 狂った話でも、 まず「情報」として処理する。
私は一息置いて言った。
「このまま進めば――オシリス様は"死に"ます」
言葉が喉を裂く。
「セトは王殺しの汚名を背負い、 私は子を捨て、 あなたは敵対者として立ち、 ホルスは若さゆえに争いを強いられる」
部屋の空気が、重く沈んだ。
イシスの目が、わずかに揺れる。
「……妄想にしては、具体的ね」
「神話です」
私は、真正面から言い切った。
「後世の人々が、私たちを神として祀り、 その物語を"神話"として残します。
でもこの世界では、 神話は"起こり得る最悪の未来の記録"です」
視線を逸らさない。
「世界は、物語を成立させたがっている。 トトの記録として、 歴史を固定しようとしている。
だから、放っておけば、必ずそうなる」
沈黙。
イシスは、静かに言った。
「……あなたは、 別の世界の記憶を持っている」
断定だった。
私は、驚いて息を呑む。
「どうして……」
「わかるわ」
イシスは、窓辺に立ったまま続けた。
「あなたは、昨日まで違った。 言葉も、視線も、立ち方も。
まるで、別の誰かが入ったみたいに」
――鋭すぎる。
私は、観念して頷いた。
「……はい」
「いつ?」
「今朝」
「オシリス様と、関係を持った翌朝」
「……はい」
イシスは、少し考え込む。
「……では」
彼女は、私を見た。
「昨夜の行為は、 "別の世界の記憶がない"あなたが、 行ったこと?」
「はい」
正直に答える。
「でも、今の私は、 その動機を理解しています。
ネフティスの渇望も、 別の世界の私の知識も。
だから、これは私の罪です」
イシスは、目を閉じた。
長い沈黙。
やがて、深く息を吐く。
「……整理させて」
彼女は、理性で武装する。
「あなたは、 ネフティスとしての記憶と、 別の世界の記憶を、 両方持っている」
「はい」
「その別の世界では、 私たちの"未来"を、 "神話"として知っていた」
「はい」
「そして、その神話では、 この先、悲劇が起こる」
「……はい」
イシスは、ゆっくりと頷いた。
「……狂った話ね」
「わかっています」
「でも」
彼女は、私をまっすぐ見た。
「あなたは、嘘をついていない」
胸が、強く脈打つ。
「姉上。あなたは正しい。 理性的で、優れた王妃です」
だからこそ。
「だから私は、ここに来ました」
イシスが、私をまっすぐ見た。
「あなたは、私に何を求めているの?」
同情ではない。 赦しでもない。
それは、この人にしかできない"冷酷な仕事"だ。
私は答えた。
「判断です」
迷いなく。
「感情ではなく、 この国と王家と未来のために、 最も損失の少ない選択をしてください」
イシスが、静かに繰り返す。
「……損失の少ない選択?」
「はい」
私はあえて残酷な事実を、言葉にする。
「現在、王家には『次』がいません」
沈黙。
「セトにも、オシリス様にも、 そして姉上にも、子はいない。
もし私がこの子を闇に葬れば、 王位継承権を持つ血筋が消えます。
それは数十年後、 必ず内乱の火種になる」
イシスは理解している。 理解してしまう人だ。
やがて、静かに口を開いた。
「……あなたは、 自分がどれほど無礼なことを言っているか、 わかっている?」
「わかっています」
「私の夫と関係を持ち、 その結果生まれるかもしれない子を、 "未来の要素"として提示する」
言葉を区切って続ける。
「それを、理性的に判断しろ、と」
私は、ただ頷く。
「はい」
イシスは目を閉じた。
長い沈黙が落ちる。
その沈黙が、裁判台だった。
やがて、深く息を吐く。
「……あなた、怖くないの?」
意外な問いだった。
正しい人は、"恐怖"を軽視しない。 むしろ恐怖を材料にする。
「怖いです」
即答した。
「吐きそうなくらい。 でも、もっと怖い未来を知っている」
イシスが、ふっと小さく笑った。
「……なるほど。 だから、こんな無茶をする」
彼女は机に戻り、椅子に腰を下ろした。
完璧に"王妃の顔"。
「あなたの話が真実かどうかは、 今は判断できない」
それでも、と続ける。
「あなたが、 私を騙すために来ていないことは、 わかる」
胸の奥が、ほんのわずかに緩む。
――理性が、こちらに傾いた。
「だから、条件付きで協力する」
来た。
「第一に。 この件は、 私とあなたと、 必要最小限の人間だけで扱う」
「はい」
「第二に」
イシスは、私をまっすぐ見た。
「その子は、私が引き取る」
私は、驚いて顔を上げた。
「姉上……」
「勘違いしないで」
イシスは、冷静に続ける。
「これは、感情ではなく、戦略よ」
「……」
「もしその子が、 "ネフティスとセトの息子"として育てば、 アペプの標的になる」
その言葉に、背筋が凍る。
――そうだ。
アペプは、王族の弱点を狙う。
子供は、最も脆い弱点だ。
セトが毎夜、ラーを守るために 一人で戦っている理由も、それだ。
弱点を作らない。 作らせない。
「だから」
イシスは、私を見た。
「表向きは、 "遠縁の孤児を私が引き取った"ことにする。
あなたは、 "子を捨てた冷たい母"を演じなさい」
「……でも」
「あなたは、影で愛せばいい」
イシスは、静かに言った。
「誰にも気づかれないように。 でも、確かに。
それが、母としてできる、 最善の愛し方よ」
私は、何も言えなかった。
ただ、頷くことしかできなかった。
――そうだ。
神話では、アヌビスは 「捨てられた子」として育つ。
でも、それは 「守るための選択」だった。
「第三に」
イシスは続ける。
「私が、その子の"育ての母"になる。 あなたは、"実の母"のまま。
二人で、守りましょう」
胸が、熱くなった。
「……ありがとうございます」
「感謝は要らない」
イシスは、窓の外を見た。
「私も、子が欲しかった。
だから―― あなたの子を、私の子としても愛する。
それだけよ」
その言葉が、胸に刺さる。
淡々としているのに、 どこか震えている。
「第四に」
イシスは、私を見る。
「セトを壊さない」
一瞬、息が止まる。
イシスは目を伏せたまま続けた。
「彼は……必要な男よ」
その言い方が、静かな刃だった。
私は、思わず息を呑んだ。
「姉上…… セトのこと、知っていたんですか?」
「当然でしょう」
イシスは、淡々と答える。
「アペプの動向を探り、 ラー様を守り、 毎夜、一人で戦っている男。
王妃として、 それを見逃すほど愚かじゃないわ」
彼女は、窓の外を見た。
「オシリスは、光だから。 光は、影を見ない」
その言葉が、胸に刺さる。
「でも私は、見ている。 セトがどれだけ、 この国の盾になっているか」
私は、何も言えなかった。
姉は、 すべてを知っていた。
「だから」
イシスは、私を見る。
「彼を壊すな。 あの男は、 この国が最も必要としている男だ」
「……はい」
「そして、最後に」
イシスは私をまっすぐ見た。
「私が、"敵対する役"を引き受ける。 それが必要なら」
胸が強く脈打つ。
「あなたは私を嫌っていい。 憎んでもいい」
それでも、と念を押すように。
「理性だけは、手放さない」
私は深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
イシスは少し困ったように笑う。
「感謝される筋合いじゃないわ。 私はただ、 国を守る判断をしただけ」
正しく、冷静で、無駄がない。
いつもの姉の言葉だ。
それから、 ほんの少しだけ声を落として付け加えた。
「……それに」
視線を窓の外へ向ける。
「あなたの子を、 "政治の失敗"で失わせる気はない」
彼女は、ゆっくりと続けた。
「その子は、 私にとっても、 大切な"次"になる」
私はこみ上げるものを、 必死で飲み込んだ。
ここで泣いたら、全部が崩れる。
――よし。
理性は、こちら側だ。
⸻
部屋を出るとき、 足がわずかに震えているのが分かった。
でも、それは恐怖だけじゃない。
確かに、世界が動いた感触があった。
セトと手を組み、 イシスの理性を味方につけた。
次に立ちはだかるのは―― 神殿という、言葉の迷宮。
私は廊下を歩きながら、 無意識に腹へ手を当てた。
「……絶対、守るから」
推しも、 この国も、 壊れかけの大人たちも。
そして――
(……影で、愛するから)
「捨てた母」を演じても。
私は、母であり続ける。




