第2話「砂の匂い、罪の味」
どれだけ香油を塗りたくっても、自分の中から「あの匂い」が消えない気がした。
冷たい水で、何度も頬と腕を洗う。 女官たちの視線も構わず、肌が赤くなるまで。
イシスに化けるために纏った、蓮の花の香水。 最高級のはずなのに、今は吐き気を催すほど重い。
(……どの面下げて、会いに行くつもりなのよ)
鏡の中の銀髪の女が、冷ややかにこちらを見返してくる。 昨夜、私は姉の姿を借りて義兄を欺いた。
オシリスは、何も疑わなかった。 ただ、妻を愛していただけだ。
汚したのは、私だ。
それでも―― 私は、濡れた手で自分の腹部を押さえた。
これでいい。 この一歩がなければ、アヌビスは生まれない。
「……私は、確信犯ね」
自嘲気味に呟く。 清廉なヒロインなんかじゃない。 推しの存在を確定させるために、地獄行きの切符を選んだ。
ならばせめて。 この一夜を起点に壊れていく男たちを、私が繋ぎ止める。
「準備ができたわ。……行きましょう」
女官から受け取ったのは、薄い銀の刺繍が入った白のドレス。 セトが昔、「お前には白が似合う」と言った声が、なぜか蘇る。
――愛されなかった妻の、数少ない記憶。
ネフティスとしての私は、 夫から顧みられたことが、ほとんどなかった。
形だけの夫婦。 義務としての同居。
彼は私を見なかった。 私も、彼を愛さなかった。
でも。
前世の記憶が戻った今、 私は知っている。
神話では、セトが追放された後、 ネフティスだけが彼のそばに残る。
その時、初めて二人の間に「絆」が生まれる。
(……今は、まだその時じゃない)
胸が、静かに痛んだ。
これから、私はこの男を「王殺し」にする。 汚名を着せ、孤独に追い込む。
それが、歴史を守るということ。
でも――
(心まで、壊させはしない)
私は、深く息を吸った。
⸻
朝の祈祷が終わった頃。
回廊に光が満ちる。 石床の温度が、裸足の裏に伝わる。
その先から、重い足音が近づいてきた。
女官たちが、一様に姿勢を正す。 誰も、彼の方を見ない。
恐れている。
――この国で、一番恐れられている男。
「……セト」
燃える赤髪。 鍛え上げられた体躯。 黄金の瞳。
神殿帰りの彼から、砂と香の匂いがした。
朝の光を受けても、その髪は鈍く、 どこか燃え尽きかけの火のように見える。
目の下には、濃い影。 血色の悪い肌。 乾いた唇。
――疲れている。
それも、一晩二晩ではない。
外套に、わずかに血の匂いがする。
(……戦ったの?)
「……何の用だ」
突き放すような声。
拒絶される前に、自分から距離を取る癖。
私は、一歩前に出た。
背後で、女官が息を呑む気配。
「話があります」
「……」
セトの眉が、わずかに動く。
「今、か」
「今、です」
私は、視線を逸らさなかった。
セトは、しばらく私を見ていた。
やがて、低く言った。
「……お前、変わったな」
「変わりました」
即答する。
セトの目が、わずかに細まった。
「……お前は、何かを隠している」
心臓が跳ねる。
「……あるいは、言えない罪を犯したか」
逃げない。 ここで逸らせば、全てが崩れる。
「ええ」
私は、はっきりと答えた。
「罪を犯しました。 だから、話があるの」
セトの目が、鋭くなる。
廊下の空気が、 一瞬で張り詰めた。
「……場所を変えろ」
低い声。
「ついて来い」
⸻
セトの執務室。
扉が閉まり、 重い音が響く。
私たち二人だけになった。
「……座れ」
セトが、椅子を勧める。
でも、私は立ったまま言った。
「あなたが一人で神殿へ行く時は、 いつも同じ。
ラー様を守るため。 アペプを探るため。
そして――誰にも気づかれないように」
セトの目が、 一瞬で鋭くなった。
「……どこで聞いた」
「聞いてない」
私は、目を逸らさなかった。
「でも、わかる」
「……お前に何がわかる」
「あなたは今、独りよ」
その言葉に、 セトの呼吸が止まった。
「神殿の裏で、アペプの連中が動いている。 あなたは、それを一人で防いでいる」
「……」
「護衛を増やせば情報が漏れる。 だから一人で行く。
そして――」
私は、一歩近づいた。
「あいつらは、あなたを利用しようとしている。 "混沌の王弟"が、"完璧な王"に反旗を翻す。
それを、待っている」
セトが、舌打ちした。
「……なぜ知っている」
「わからない」
正直に答える。
「でも、わかる」
沈黙。
やがて、セトは窓辺へ向かった。
「……それで?」
背を向けたまま、聞く。
「お前が知っているのは、それだけか」
「いいえ」
私は、深く息を吸った。
「昨夜、私は―― オシリス様と、関係を持ちました」
セトの背中が、 わずかに強張った。
「……」
長い沈黙。
やがて、静かに聞いた。
「……それで?」
その声に、 怒りはなかった。
ただ、確認。
「妊娠する可能性があります」
はっきりと答える。
セトは、目を閉じた。
深く、息を吐く。
「……そうか」
それだけ。
私は、続けた。
「共闘しましょう」
セトが、振り返った。
「……何?」
「このままでは、 アペプの思う通りになる」
私は、彼を見た。
「あなたは、 兄上を守ろうとしている。
でも、世界は、 あなたを"王殺し"に仕立てようとしている」
セトの拳が、握られた。
「……俺は、兄上を殺さない」
「わかってる」
即答した。
「でも、世界は、 そう記録するかもしれない」
「……」
「だから」
私は、一歩近づいた。
「一緒に戦いたい。
表では、今まで通り。 怖い王弟。疑われる男。
でも裏では、全部共有する。 情報も、恐怖も、判断も」
セトは、私を見つめた。
「……それで、さっきの話は?」
「オシリス様の子を、 宿すかもしれない」
私は、はっきりと言った。
「でも、それも含めて、 すべて話す。
隠さない。 嘘もつかない」
「……」
「あなたが独りで戦わないでいい方法を、 一緒に探したい」
「そして――」
私は、彼の手を取った。
「もし、 最悪のことが起きても」
「……」
「あなたの心だけは、 壊させたくない」
セトは、長い間黙っていた。
やがて、低く言った。
「……お前、本気で狂ったな」
「ええ」
私は、頷いた。
「罪を犯して、 地獄に落ちる覚悟を決めた。
だから、一緒に落ちてほしい」
セトは、私の手を見つめた。
「……意味がわからない」
「お前は、俺を愛していない」
その言葉は、 事実だった。
私は、否定しなかった。
「……ええ」
正直に答える。
「愛していない」
沈黙。
重い、沈黙。
「でも」
私は、彼の目を見た。
「壊れるのを見たくもない」
セトの目が、わずかに揺れた。
「これから起こることは、 もう止められない。
アペプは、あなたを利用しようとしている。 兄上は――」
言葉が、喉に詰まる。
「……いずれ、死ぬ」
セトの目が、鋭く光った。
「……お前、何を言っている」
「未来が、見えるの」
嘘ではない。
「このまま進めば、 あなたは"王殺し"と呼ばれる。
でも――」
私は、彼の手を強く握った。
「それを、防ぎたい。
いいえ、防げないなら、 せめてあなたの心だけは守りたい」
「……」
「世界が、あなたを王殺しと呼んでも」
私は、はっきりと言った。
「私だけは、 あなたが兄上を守ろうとしていたことを、 記録に残す」
セトは、長い間黙っていた。
やがて、低く笑った。
「……お前、面白いな」
皮肉でも、嘲笑でもない。
ただ、心から不思議そうな声。
「愛していないと言いながら、 地獄に付いてくると言う。
兄上と関係を持ったと告白して、 共闘を求める」
「矛盾してる?」
「ああ」
「でも、本当のことよ」
私は、彼の手を離さなかった。
セトは、窓辺へ向かった。
「……俺は、お前を愛してない」
背を向けたまま、言った。
「お前も、俺を愛してない」
「……はい」
「なら」
セトは、振り返った。
「お前が誰を愛そうと、 それは俺の問題じゃない」
その目に、 怒りはなかった。
疲労と、 どこか諦めたような静けさ。
「でも」
彼は、続けた。
「もし宿ったなら、 その子を守る必要がある」
「……」
「アペプの標的になる。 王族の血を引く子は、 すべて弱点だ」
セトは、私に近づいた。
「だから、 表向きは"知らない"」
「……はい」
「お前が、どう産もうと。 誰が、どう育てようと。
俺は、関与しない」
そう言いながら、 彼は私の肩に手を置いた。
「でも」
静かな声。
「子供に、罪はない」
その言葉が、 胸に響いた。
「もし宿ったら、教えろ。 遠くから、様子は見る」
「……ありがとう」
「礼を言うな」
セトは、手を離した。
「これも、共闘の一部だ」
彼は、長い沈黙の後、言った。
「……わかった」
短く。
「今は、信じない」
「ええ」
「でも」
彼は、私を見た。
「お前が逃げないなら、 俺も、逃げない」
その言葉が、 契約になった。
⸻
セトは、椅子に座った。
「……で」
彼は、私を見る。
「イシスには、話したか」
「……まだです」
「早く話せ」
セトは、真剣な目をした。
「あの人は、 お前の姉であり、 オシリス様の妻だ。
最も傷つけた相手に、 最初に謝罪すべきだろう」
その言葉が、 胸に刺さった。
「……はい」
私は、深く頭を下げた。
「今日、話します」
「ああ」
部屋を出る時、 セトが小さく呟いた。
「……お前は、正直だな」
その声が、 どこか温かかった。
⸻
廊下を歩きながら、 私は強く思った。
今日。
姉に、すべてを話す。
一番、傷つけた相手に。 一番、謝らなければならない相手に。
逃げる気は、 なかった。
罪の味がする朝。
(……アヌビス。母様は、もう戻れない)
でも、後悔はしない。
推しのために夫を裏切り、 それでも夫を救おうとする。
矛盾した道を、 私は選んだ。
愛していない夫。
でも、 共に戦う仲間。
それで、十分だった。
歴史の歯車が、静かに回り始めた。
それは、壊すためではなく―― 壊れないための、戦争だった。




