第1話「目覚めたら、すべてが終わっていた朝」
目が覚めた瞬間、鼻腔を突いたのは「罪」の匂いだった。
甘く、どこか退廃的なキフィの残り香。 そして、私の体に残る――私のものではない、姉イシスの愛用する香水の気配。
(……ああ、やってしまったんだ)
意識が覚醒すると同時に、 二つの人生が、激流のように流れ込んできた。
――前世。 日本で、エジプト神話を愛した私。
――今生。 王弟妃ネフティスとして、この宮廷で生きてきた私。
二つの記憶が重なり、 冷酷なまでの理解が降りてきた。
天蓋つきの豪華な寝台。 指先に触れる最高級のリンネル。
私は上体を起こし、鏡台へ這うように向かった。
磨かれた銅鏡に映るのは、月光を宿したような銀髪。 整った眉、潤んだ瞳。 そして――鏡を見るまでもなく自覚している、肌に残る熱。
「……ネフティス」
その名を口にした瞬間、 前世で読んだ「神話」が、脳裏に浮かんだ。
――ここは、神話の世界じゃない。
古代エジプト。 後世に「神々の時代」と呼ばれることになる、王朝黎明期。
私たちは、神ではない。 人間だ。
ただ、後の世が、私たちを「神」として祀り上げた。
オシリスは「冥界の王」として。 イシスは「魔術の女神」として。 セトは「混沌の神」として。
そして私、ネフティスは――「見えざる女神」として。
前世の私は、その神話を愛していた。 特に、アヌビス。
神話で、彼は誰よりも孤独だった。 父を知らず、居場所を失い、 それでも死者を導く役目を背負った。
私は、その健気さが、 たまらなく愛おしかった。
昨夜の記憶が、鮮明に蘇る。
姉の衣装。 姉の髪型。 姉の香水。
すべてを完璧に模倣して、 私は――オシリス様の寝室へ向かった。
(……私は、彼を愛していた)
ネフティスとしての私は、 ずっと、義兄に憧れていた。
光を放つ王。 誰もが愛する、完璧な兄。
その隣にいるのは、いつも姉イシスだった。
美しく、聡明で、 オシリス様と並んで立つにふさわしい女性。
私は、ずっと羨ましかった。
嫉妬していた。
そして――諦めきれなかった。
夫セトは、粗野だった。 荒々しく、口は悪く、 誰からも恐れられる混沌の戦士。
ネフティスとしての私は、彼を愛していなかった。
義務として隣にいるだけだった。
だから、昨夜――
抑えきれなくなった想いが、 あの行為に繋がった。
(……最低だ)
前世の記憶が戻った今なら、わかる。
私がやったことは、 取り返しのつかない裏切りだ。
姉を欺き、 義兄を騙し、 夫を裏切った。
清廉潔白なオシリスを、 私は自分の手で汚した。
激しい自己嫌悪が、胸を締め付ける。
だが、その直後―― 私の中の冷静な声が、はっきりと告げた。
――でも、これでアヌビスが生まれる。
そうだ。
ネフティスの「オシリスへの愛」と、 前世の私の「アヌビスへの愛」が、 重なっている。
昨夜の行為は、 二つの想いが交差した瞬間だった。
もし前世の記憶があの時あったとしても、 私はあの行為を止めなかったと思う。
推しのためなら。 この想いを形にするためなら。
何を犠牲にしても――
「……私は、確信犯ね」
自嘲気味に笑う。
清純な悲劇のヒロインなんかじゃない。 私は、愛に溺れて夫を裏切り、 それでも推しを産むことを選んだ、 最低の共犯者だ。
けれど。 代償は、あまりにも大きい。
前世で読んだ「神話」は、 トトが記録した史実を元に、 後世の人々が脚色したものだ。
大きな流れ―― 誰が王になり、誰が殺され、 どの戦争が起きたか。
それは、もう記録されている。 変えられない。
この一夜を起点に、 すべてが崩れ始める。
夫セトの絶望。 オシリスの"死"。 イシスの復讐。
そして―― 8年後、 まだ幼いアヌビスが、 父のミイラを作ることになる。
私は反射的に、自分の腹部に手を当てた。
まだ、何も感じない。
けれどここには、 未来の「死者の守護神」が宿っているはずだ。
(……ごめんね)
心の中で、まだ見ぬ我が子に謝る。
あなたは、8歳で父を失う。 そして、死者を導く役目を背負わされる。
でも――
(絶対、守るから)
神話では、アヌビスは孤独だった。
でも今回は違う。
私が、母として、そばにいる。
前世の記憶が戻った今、 私は知っている。
歴史の大きな流れは変えられない。
オシリスは死に、 セトは王殺しになり、 神話は、予定通り進行する。
でも。
その時、誰が何を思っていたか。 心の中で、どう折り合いをつけたか。
そこは、記録されていない。
だから―― そこだけは、私が変える。
(キャラクターたちの心まで、筋書き通りに壊されてたまるもんですか)
コンコン、と控えめなノック音。
「王弟妃殿下。起床のお時間でございます」
扉が開き、女官が入ってきた。
彼女は私を一目見るなり、微かに息を呑み、 すぐに視線を床へ落とす。
――悟られた。
私は静かに、平静を装って尋ねた。
「……殿下は?」
「セト殿下は……夜明け前に神殿へ向かわれました。お一人で。護衛も、最小限で」
心臓が、冷たい針で刺されたように痛む。
(……セト)
――神殿。
そこには、神殿長ラーがいる。
太陽神の名を継ぐ、この国の精神的支柱。 高齢だが、王権を「認める」立場にある、最も重要な人物。
そして。
前世の神話知識が、脳裏に浮かぶ。
「アペプ」。
混沌を信奉し、秩序を憎む者たち。
神話では、巨大な蛇の怪物として描かれている。 毎夜、太陽神ラーの舟を襲い、 世界を闇に沈めようとする存在。
そして、それを退けるのが――セト。
でも、それは「神話」。
今のこの時代では―― アペプは、まだ「人間」だ。
オシリスの完璧な統治を憎み、 神殿長ラーを狙い、 影で蠢く反乱分子。
彼らは、毎日のように謀略を企てる。
暗殺未遂。 毒。 放火。
そして、それを防ぎ続けているのが―― 夫、セト。
誰にも気づかれないように。 一人で。
夜明け前の神殿は、最も警備が薄い。 だから、セトは自ら見回る。
ラーを守るために。
(……危険すぎる)
護衛を減らせば、 自分が狙われるリスクが増す。
でも、護衛を増やせば、 情報が漏れる。
アペプの連中は、 王宮の中にも潜んでいる。
だから彼は、一人で行く。
いつも。
(……あなた、いつからそんなに追い詰められてたの?)
前世の記憶が戻る前は、 ネフティスとしての私は、 彼のことを、ただの粗野な夫だと思っていた。
でも今は、知っている。
後世の神話で彼がどれほど重要な役割を果たしていたか。
太陽神ラーの舟を守り、 混沌の大蛇アペプを退け続けた戦士。
荒々しいが、誰よりも強い。
そして―― 誰よりも、孤独になる男。
(……愛してはいない)
正直に、認める。
ネフティスとしての私は、 彼を夫として愛せなかった。
でも。
前世の記憶が戻った今、 私は彼の「未来」を知っている。
兄殺しの汚名を着せられ、 誰からも憎まれ、 それでも国を守り続ける。
そして最後には、 追放される。
その時、 ネフティスだけが、彼のそばに残る。
(……それが、私たちの「始まり」)
神話では、その時初めて、 二人の間に絆が生まれる。
今は、まだその時じゃない。
でも――
(心まで、壊させるわけにはいかない)
愛していなくても。 夫として選べなかったとしても。
彼の心まで壊すのは、 絶対に許さない。
推しのために夫を裏切った。 その罪は、償う。
でも――償い方は、私が決める。
「……イシス様は?」
思わず、姉の名を口にする。
女官が、わずかに躊躇する。
「王妃様は……朝の儀式のご準備を」
心臓が、鈍く痛んだ。
姉。
完璧で、美しく、 誰からも愛される女性。
ネフティスとしての私は、 ずっと彼女を羨ましく思っていた。
でも同時に―― 尊敬もしていた。
姉は、王妃として完璧だった。 冷静で、聡明で、 感情に溺れない。
(……私とは、正反対)
嫉妬と尊敬。 憧れと劣等感。
それが、姉妹の間にあった感情だった。
そして昨夜―― 私は、その姉を裏切った。
(……ごめんなさい、姉上)
心の中で謝る。
でも、声には出せない。
前世の記憶が戻った今、 私は知っている。
この先、姉とは「敵対」しなければならない。
史実を守るために。
神話を成立させるために。
(……だから今は、まだ謝れない)
私は水差しの水で顔を洗い、 香水の残り香を必死に流した。
「……支度を。一番……一番、彼が嫌いじゃない衣を」
女官の目が、驚愕で見開かれた。
声が、震えていた。
銀色の髪をきつく結い、 重い装飾品を身にまとう。
鏡の中の自分を見つめる。
後世、「見えざる女神」と呼ばれる女。
でも今の私は、ただの人間だ。
王弟妃。 セトの妻。 そして――昨夜、義兄を裏切り、推しを宿した女。
鎧を着るような心境だった。
神殿に行けば、 昨夜騙したオシリスにも会うかもしれない。
そして、すべてを察しているかもしれないセトの、 あの鋭い眼光に晒される。
吐きそうだ。 逃げ出したい。
でも、知っている。
このまま黙って運命に身を任せれば、 セトは誰にも理解されぬまま、 8年後、兄を殺した「王殺し」になる。
アペプの連中に利用され、 孤独に壊れていく。
そして、アヌビスは孤独に育つ。
(……推しは産む。でも――)
(そのために夫を犠牲にするなんて、そんなの違う)
廊下の先で、黄金の太陽が昇っている。
それはオシリスを象徴する光。 清廉で、高潔で、誰からも愛される王の光。
私は、その光に背を向けた。
向かう先は、影の中。 混沌を退ける男が、 一人、戦い続けている場所。
(……セト)
夫は、私を殺すかもしれない。 それでも。
「行かなきゃ」
小さく呟き、一歩を踏み出す。
今日から私は、 歴史を欺き、 愛する者たちの「心」だけを救うための、 静かな戦争を始める。
――推しのために。 そして、壊したくない人たちのために。
私は王宮でいちばん静かな戦争を、今、始める。




