7話 不本意な救済
本日は2話更新となっております。
1話目は閑話のため、読み飛ばしても問題はありません。
鼻腔を突いたのは、雪の凍てつく匂いでも、土に塗れた薬草のえぐみでもなかった。
薪が爆ぜる乾いた音。古い木材が温められた特有の匂い。そして、何かを煮込む、甘やかで滋味深い湯気の香り。
クズノハの意識は、底知れぬ闇からゆっくりと浮き上がった。
最初に感じたのは、暴力的なまでの重みだった。自ら設計した物理演算が全身を包み込む分厚い毛布の重みを克明に脳へ伝えていた。
(……温かい、だと?)
ありえないはずだった。自分は洞窟の奥、泥まみれの尻尾を抱いて果てる寸前だったはずなのだ。
反射的に、自身の武器を確認しようとした。雪原を蹴るための四肢。獲物を切り裂くための爪。そして、何より泥と雪でドロドロになったはずの、白銀の尻尾。
だが、そのすべてが、使い古された温かな毛布によって拘束されていた。
焦燥に駆られ、視界を動かす。そこには掘り返した冷たい土の色などどこにもない、清廉な木造りの部屋があった。
「おや……気がついたかい。具合は大丈夫かい?」
不意に、上から声が降ってきた。
視線を動かせば、そこには深い皺を刻んだ老婆が一人。その瞳には、彼女が忌避し続けた人間特有の慈しみが満ち溢れている。
クズノハは、瞬時に20年間の社会人経験で培った解析モードを起動させた。
心臓を叩くような嫌悪感。触れるなと叫びたい衝動。それらを鋼の理性で押さえつけ、状況を冷徹に分析する。
(室温、湿度、体調……最悪だ。ここは人間社会の最小単位、家庭という名の檻だ。俺の20年の計画は、たった一人の老婆の善意というノイズで、これほど簡単に台無しになるのか……)
佐藤はあの日、全てを捨てて人間社会を卒業したはずだった。巨万の富を築き、肉体を捨て、概念としての狐になる。それは佐藤にとって、人生という苦行のクリアであり、そこからの解放であったはずだ。
だが、現実はどうだ。
孤高の野生を気取りながら、たった一晩の雪に負け、泥を啜り、結局は最も忌み嫌っていた他人の施しがなければ命を繋ぐことさえできない。
自由を求めてダイブした先が、前よりもずっと無力で、他人に依存しなければ一秒も成立しない依存の檻であったという事実。
彼女が狐として自立しようと足掻いた誇りは、努力は、老婆の善意によって、無自覚に、かつ丁寧に打ち砕かれていた。
追い打ちをかけるように、老婆が木のスプーンですくい上げた粥を唇に押し当てた。
「さあ、まずは温かいものをお食べ。お前さん、生きようとしてあんなところまで逃げてきたのでしょう? だったら、意地を張りなさんな」
クズノハは固く唇を結んだ。
この粥を拒めば死ぬ。だが、死ねばリスポーンというゲームの仕様に甘んじることになる。それは狐としての連続性の喪失だ。
生きるためには、この忌々しい人間からの施しを胃に収め、寄生虫のように命を繋がなければならない。
(……クソッ、何という、不甲斐なさだ……)
一口、粥が滑り込んだ。
瞬間、脳内を暴力的なまでの充足感が駆け抜けた。
(……あ、……ぁ……)
味覚設定:リアル。
熱が、感覚が、止まっていた思考を無理やり回し始める。理性がどれほど毒だと罵ろうとも、肉体は裏腹に、二口目を求めて微かに震えてしまう。
かつて自分が無価値な部品として回り続けていた、あの灰色の社会。その一部である老婆の手の温もりが、今の彼を支える唯一の生命線であるという、逃れようのない屈辱。
【無貌】のスキルによって、彼女の顔はピクリとも動かない。眉一つ寄せず、唇の端さえ歪ませることはできない。
だが、あまりにも巨大すぎる自己への落胆と、不甲斐なさ。
耐えきれぬ実存的な絶望が、三歳児の細い涙腺を押し開いた。
感情を殺したはずの無表情な顔を、一すじの涙が、静かに、そして熱く伝い落ちる。
「……おや、おや。美味しいかい。よかった……本当に、よかったよ」
老婆は、その涙を粥の旨さと、救われたことへの安堵だと信じて疑わず、慈愛に満ちた手でそっと拭った。その温もりを、もはやクズノハは振り払うことができなかった。
誰にも頼らず、狐として生きようとした男は、抗えない生命の温もりに包まれて、かつて捨てたはずの世界に完全に敗北したという、この上ない屈辱の涙を流していた。




