6話 生存演算の破綻
あけましておめでとうございます。
親兎が仔を連れて去ったあとの雪原には、吸音材を敷き詰めたような静寂だけが残された。
クズノハは、泥と雪に塗れたまま、まずは思考の再構築を開始した。
(……屈辱は後回しだ。まずは空腹度の管理。狐としての初日を、行き倒れで終えるわけにはいかない)
彼女は三歳児の頼りない視界を動かし、周囲を見渡した。
視界の端、猛吹雪の中に一点、燃えるような赤が揺れた。低木の枝に残された、数粒の野の実。
(……見つけた)
クズノハは泥だらけの和装を翻し、その赤へ向かって足を踏み出す。
だが、一歩ごとに、理想の象徴であった白銀の尾が冷酷な質量となって脚に絡みついた。雪を吸い、氷を纏ったそれは、もはや三歳児の細い腰には耐え難い濡れた重りでしかなかった。
幹に爪を立て、跳ねる。
瞬間、和装の裾が枝に引っかかり、自身の設計した滑らかな摩擦係数が、一切の抵抗を許さず彼を雪上へと叩きつけた。
ドサリ、という無様な音。
届かない。物理法則は、完璧に、冷酷に、主人の希望を打ち砕いた。
(……まあいい。他のものを食べれば良いだけだ)
気持ちを切り替え、次に狙ったのは倒木の下だ。彼女は北方の植生や生物の生態に関する膨大な知識を持っていた。その現実世界のロジックが、彼女に生存の最適解を提示する。
(この気温、この植生……倒木の下には必ず幼虫が越冬しているはずだ。栄養価も高く、今の私の筋力でも確実に捕食できる)
クズノハは立ち上がり、ターゲットの倒木へと歩み出した。だが、一歩踏み出すごとに、自慢の銀の尻尾がずしりと重く脚に絡みつく。雪を吸い、泥を蓄えた理想の象徴は、今や機動力を削ぐだけの濡れた重りでしかなかった。
倒木の前に辿り着くと、彼女は手近な木の枝を拾い、それをテコにするように構えた。
(――【穴掘り:Lv.1】)
スキルの補正が走り、幼児の力では不可能な勢いで土が跳ね飛ばされていく。枝を突き立て、効率的に地層を暴く。
(よし。生物学的に、この深度なら必ず獲物がいる。物理的な干渉は完璧だ。計算通りに進んでいる)
だが。二十分後、クズノハの目の前に広がっていたのは、ただの掘り返された土という虚無だった。
いくら探しても、生命の輝きは一つも混じっていない。
(……なぜだ。なぜいない? 理屈に合わない。これだけの好条件が揃っているのに……)
クズノハは呆然と立ち尽くした。そして、血の気が引くのを感じた。
物理演算は正しく機能し、穴は掘れた。だが、そこから虫が出てくるためには、この座標にスポーン設定がなされていなければならない。
現実の常識ではそこに生命がいて当然だが、ここはプログラムによって配置された記号の世界だ。設定がない場所に、生命は発生しない。
(……ああ、そうか。俺は、ゲームの仕様と、現実を混同しようとしたのか……)
エンジニアとして最も初歩的な、そして致命的なミス。
リアルを追求してこの世界の理を作り上げた本人が、その作り物のルールに足元を掬われたのだ。
無駄な掘削作業でスタミナは底を突き、空腹の警告が視界の隅で赤く点滅する。
クズノハはついに膝をついた。目の前には、掘り起こした土の中に混じっていた、ひょろひょろとした薬草がある。
(……これを、喰うのか。狐を目指した俺が、泥のついた草を……)
震える手でそれを毟り、口に運ぶ。
あまりの苦さと、土のざらついた感触。味覚設定のリアルさが、三歳児の肉体に激しい拒絶反応を催させた。
(……汚い。惨めだ。……俺は、こんな泥を啜るために、ここへ来たのか……!?)
理想とした「孤高の捕食者」の姿は、どこにもなかった。
最高級の着物と自慢の尻尾をボロ雑巾のように汚し、ただのゲームの仕様に負けて草の苦味に涙を浮かべる、無力な迷子。
猛烈な徒労感が、わずかに残された動く気力を食いつぶした。
吹雪が強まる中、彼女はかろうじて見つけた洞窟の隙間へと這いずる。
冷たい岩肌に背を預け、震える身体を、重い尻尾で包むようにして丸めた。
(……尻尾は、温かいんだな。これだけは、設計ミスじゃ、なかった……)
皮肉な満足感だけを抱き、クズノハは泥まみれのまま、深い闇へと意識を沈めていった。




