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狐狂いのVRMMO  作者: かきのたね
五章 白銀の姫君と観察者達

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53話 石畳の街、祈りの鐘、銀の夢

 正午前……予定の時間を少し過ぎた頃、街の石畳を照らす陽光が、商会の重厚な扉を白く縁取っていた。中から現れたカレンは、膨大な書類の束をインベントリに収めながら、大きく一つ伸びをした。膨大な書類の束と格闘していた名残か、その表情には微かな疲労があったが、やり遂げたという充足感がそれを上回っているようだ。


「お待たせ! なんとか良い条件でまとまったわ。これで村の冬も一安心ね!さあ、まずは宿へ行きましょう。お腹が空いて倒れそうだわ」


 カレンの明るい声に、ハルは「お疲れ様。大変だったろう」と穏やかに労いの言葉をかけた。商会の前で合流した一行は、まずは拠点を確保するために前回の遠征でも利用した宿へと向かった。


 道中、のんびりと歩きながらハルが午前の出来事を報告する。


「カレンさん、クズノハちゃんがねぇ、自分でお買い物をしたんだよ。今までコツコツ貯めていた銀貨を何枚も並べて、本を一冊ねぇ」


「あら、自分のお金で? へー、クズノハちゃん。どんな本を買ったのかしら?」


 カレンが感心したようにクズノハの頭を撫でたが、本人は無言のまま、インベントリに収めた本の存在を意識しているのか、その手元を少しだけ気にしている様子だ。

 それをカレンは微笑ましく笑うと、そのまま宿の扉を押し開けた。


 宿の女主人マーサと手短に挨拶を交わし、手短に数日分の宿泊手続きを済ませる。一息つく間もなく、一行は宿の食堂の隅に陣取って、温かいスープと共に昼食を摂りながら午後の予定を話し合った。


「私は午後、別の商店を数軒回って、冬用の食料と物資の予約を確定させてくるわ。村の唯一の雑貨屋としては、ここで買い漏らすわけにはいかないからね。ハルさんとクズノハちゃんはどうするの?」


「事務局へ行って、テレーズ様の顔を見てこようと思うんだよ。何か手伝えることがあればと思ってね。カレンさん、明日の午前中には市場へ行けるかい?」


「そうね。じゃあ、明日の午前中に市場で最終的な買い出しをしましょう。三人で回れば、買い漏らしもないはずよ」


 翌朝の約束をして解散すると、ハルはクズノハの手を引いて再び街へと歩き出した。

 商業区の喧騒を抜け、静謐な空気が漂う聖堂区へと向かう。

 ハルが手を引いて歩くクズノハの歩調は、村にいる時よりも明らかに速かった。いつもなら街の景色や物価を冷徹に観察する彼女だが、今は視線が落ち着きなく、時折自分の手元を凝視したり、何もない空間をじっと見つめたり、ハルの顔を「早く行こう」と言わんばかりに見上げたりしている。


「そんなに急がなくても、テレーズ様は逃げやしないよ、クズノハちゃん」


 ハルが苦笑しながら歩調を合わせる。ハルの目には、孫が初めて買った本を、一刻も早く静かな場所で広げたくてたまらない――その焦燥にも似た期待が、小さな背中から微かに漏れ出している。その珍しく子供らしい急き立てるような態度が、ハルには愛おしくてならなかった。


 やがて、街の中心にそびえる荘厳な大聖堂。そこに隣接する石造りの大きな建物である事務局に到着した。高い天井に冷たい石の回廊。そこではテレーズが数人の神官と共に忙しなく立ち働いていた。村にいた時よりも公人としての厳しい表情で書類を検品していた彼女を見つけるのは難しくなかった。


「テレーズ様、お忙しいところ失礼しますよ」


「ハルさん、クズノハ様! よくこちらが分かりましたね」


 テレーズは驚いたように顔を上げると、手にしていた書類を傍らの神官に預け、柔らかな笑みを浮かべて二人に歩み寄った。村にいた頃よりも少し引き締まった表情をしていた彼女だったが、二人の顔を見ると、いつもの穏やかなシスターの顔に戻る。


「テレーズ様、お忙しいところをすみませんねぇ。何か私たちに手伝えることはありませんか?」


 ハルの申し出に、テレーズは「いえ、そんな、せっかく街に来られたのですから」と一度は辞退したが、ハルの重みのある言葉に根負けし、申し訳なさそうに回廊の隅を指し示した。


「……では、お言葉に甘えてもよろしいでしょうか。ちょうど、明日の聖歌隊の練習の後に配るナッツと乾果の袋詰めが、少し遅れていまして……」


 ハルとクズノハは、回廊に用意された小さな木箱の前に座り、袋詰めを手伝い始めた。

 ハルが袋を広げ、クズノハがそこへ手際よく実を詰めていく。時折、他の部屋から子供たちの笑い声が聞こえてくるが、クズノハは脇目も振らずに作業に集中していた。ナッツを掴む。袋に入れる。口を閉じる。村でハルやベルナデッタの手伝いをしていた時と同じ、淀みのない、一定のリズム


 一刻も早く、一秒でも早く、このタスクを終わらせて宿へ帰る。

 無表情な彼女の指先は、焦りを表に出すことはなかったが、その正確無比な動作からは、静かな執念が透けて見えた。


「……ふふ、本当に感心してしまいます。クズノハ様は、村にいた頃よりもさらに真面目になりましたね」


 テレーズが微笑みながら見守る横で、クズノハは最後の一袋を詰め終えると、小さく息を吐いた。これで午後の予定は全て終了だ。

 事務局を出る頃、街は茜色の光に包まれていた。建物の影が石畳の上に長く伸び、家路を急ぐ人々の足音が心地よく響く。遠くで夕刻を告げる教会の鐘が鳴り、空の境界が藍色へと溶けて街灯に明かりが灯り始めていた。


「お疲れ様。クズノハちゃんが頑張ってくれたおかげで、随分早く終わったよ」


 ハルの温かな手に引かれながら、クズノハは宿へと続く道を歩く。目的を果たした解放感からか、彼女の尻尾が一度だけぴこりと跳ねた。それは、普段の彼女からは想像もつかないほど素直な、高揚の印だった。

 その姿を教会の二階から見下ろしていた、深紅の法衣を纏う老司教がいた。彼は手元の書状を鳩の足に結び付けると、静かに空へ放つ。飛び立った鳩は、暮れなずむ空を王都の方角へと向かい、やがてその姿は見えなくなっていった。


 宿に戻ると、カレンも既に帰還しており、カレンも「予定通り主要な契約は済んだわ!」と満足げで、三人で賑やかな夕食を囲んだ。明日の市場巡りの話を聞き流しながら、クズノハは心ここにあらずといった様子でスープを口に運んでいた。


 やがて夜が深まった宿の一室。

 カレンとハルが今日一日の労働による深い眠りに落ち、規則正しい寝息が聞こえ始めた頃。

 クズノハは音もなく、ベッドの上に身を起こした。窓から差し込む青白い月光が、少女の小さな影を床に落とす。

 彼女はゆっくりと、胸元から本をを実体化させた。

 古い紙の匂いと、微かな魔力の気配。クズノハはその装丁に小さな指をかけ、一頁目を静かにめくった。

 瞳に映り込む、淡く輝く文字の列。その瞬間、クズノハに情報がインストールされ始めた。ようやく手に入れた、この世界の野生へと至る切符。

 暗闇の中、彼女の尻尾が一度だけ、期待を込めて短く跳ねた。

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