52話 再訪の街と、一冊の本
巨大な石の壁が、朝日に照らされて白く輝いていた。
三日間にわたる街道の旅を終え、カレンとテレーズは手慣れた様子で通行証を提示し、穏やかに挨拶を交わして門をくぐり抜けた。
馬車が石畳の道に入ると、車輪の音がカラカラと硬く高い響きに変わる
テレーズはひと言挨拶を交わした後に別行動を取ることとなり、御者に指示を出して教会へと向かっていった。
窓の外にはレンガ造りの建物が整然と並び、色とりどりの看板が軒を連ねている。馬車が停まったのは、街でも指折りの規模を誇る商会の前だった。奥から顔を出した担当の男がカレンに気付くと、親しげな笑みを浮かべて手招きをした。
「カレンさん、お待ちしていましたよ。例の件ですが、奥でお話しできますか?」
「ええ、お願いするわ。……ハルさん、ちょっと検品と書類作成が終わるまで小一時間はかかりそうだから、クズノハちゃんと街を見て回ってきて。終わったら、ここで待ち合わせね」
カレンの言葉に、ハルは「ああ、分かったよ。ゆっくりしておいで」と穏やかに頷いた。
カレンが商談のために奥の応接室へと消えていくのを見送ってから、ハルはクズノハの手を優しく包み込んだ。クズノハは麦わら帽子を少し直し、ハルに引かれるようにして歩き出した。
目指すのは、街の中央広場に面した冒険者ギルドだ。
広場は、朝の活気に満ち溢れていた。噴水の周囲には露店が並び、香ばしいパンの匂いや、聞き慣れないスパイスの香りが風に乗って漂ってくる。
「今日は一段と人が多いねぇ、クズノハちゃん。賑やかな冒険者さんもたくさんいるし、迷子にならないようにしっかり捕まっておいで」
ハルが周囲の喧騒に目を細めながら歩く横で、クズノハは周囲の風景を静かに眺めていた。
広場を行き交う人々の中には、地元の住人とは異なる、独特の忙しなさを持った者たちが混じっている。彼らはパーティメンバーと「次はあっちのエリアかな」「消耗品を補充しておこう」と、ウィンドウ確認しながら視線を泳がせ、通り過ぎていく。クズノハはそんな一団を、無表情に数秒だけ目で追った。
やがて二人は、広場の一角にある重厚な石造りの建物――冒険者ギルドへと到着した。
扉を開けると、そこには依頼の掲示板を囲む人々や、受付を待つ列が広がっている。
クズノハは納品窓口へと向かったが、やはり三歳児の身長では高いカウンターに手が届かない。
「おっと、よいしょ……」
ハルが手慣れた様子で、クズノハの小さな体を脇から抱え上げた。
ハルの腕の中に収まったクズノハは、ようやく目の前に現れたカウンターへ、自身のインベントリから春から夏にかけて溜めてきた薬草の束を次々と取り出し、丁寧に並べていった。
カウンターの向こう側で事務的に書類を整理していた職員が、それを見て目を丸くした。
「はい、お預かりしますね。……おや、お嬢ちゃん。随分とたくさん持ってきたんだね。……ふむ、これは基本通り、丁寧に根が処理されているね。これなら薬師たちも喜ぶよ」
カウンターの奥で、職員が手際よく計算尺を動かしていく。ハルの腕に抱えられたクズノハは、その手元を瞬きもせずに見つめていた。やがて職員は、小さな革袋に幾枚もの硬貨を詰めると、それをクズノハの前に差し出した。
「はい、お嬢ちゃん。銀貨が32枚に、銅貨が3枚。頑張って集めたね」
クズノハは無言のまま、両手でしっかりと重みのある袋を受け取った。春から夏の間にコツコツと積み上げてきた成果が、今、確かな質量となって掌に伝わってくる。
代金をインベントリに収め、ハルの腕から降ろしてもらうと、背後から「へー、すごいじゃん」と声が掛かる。
振り返ると、掲示板の前でたむろしていた冒険者の一人が、興味深そうにこちらを覗き込んでいる。ちぐはぐな革装備を纏った男だ。
「お嬢ちゃん一人で集めたの? 将来有望な薬師さんだなー」
男は笑って手を振ったが、クズノハは表情一つ変えず、音もなくハルの背後へスライドした。
「すみませんねぇ、この子、ちょっと人見知りでして。……ほら、クズノハちゃん、行こうかね」
ハルが穏やかに、しかし遮るようにクズノハを守り、二人はギルドを後にした。背後で「あはは、嫌われちゃったかー」「いや、急に話しかけたら、そりゃそうなるでしょ……」というプレイヤーたちの軽い話し声が、広場の喧騒に溶けて消えていく。
そして広場を抜け、二人はカレンとの待ち合わせまでの間、かつて訪れた裏路地へと足を向けた。
香ばしいパンの匂いや、色とりどりの布地が並ぶ商店。村の静寂とは異なる、雑多で活気ある空気が路地を満たしている。ハルは「おや、珍しい茶葉があるねぇ」と、ある店の棚に足を止め、興味深そうに中を覗き込んだ。
その隙に、クズノハはハルの服の裾をくいっ、くいっと引いた。
彼女が指し示したのは、路地の少し奥にある、本を扱う古びた個人商店だった。
「おや、あのお店に行きたいのかい?」
店内に足を踏み入れると、埃っぽい匂いと、古い紙の臭いが混じり合う独特の空気が漂っていた。店主と挨拶を交わしたハルが、棚に並ぶ絵本を眺め始めたその時、クズノハは迷わず店内のスキルブックが並ぶ一角へと向かった。
棚の隅、少し埃をかぶった実務的な装丁の数々。
その中の、一冊の薄い本を迷うこともなく手に取り、カウンターへと向かった。
背を伸ばして店主の前に置く。そして、先程受け取ったばかりの銀貨。更に今までコツコツと貯めていた硬貨。それを、その横に並べた。
「……おや、お嬢ちゃん。それが欲しいのかい?」
決して安くはない金額に、店主が眼鏡の奥の目を丸くした。ハルも驚いたようにクズノハの隣へ歩み寄る。
「クズノハちゃん、それを買うつもりなのかい? 結構なお値段だよ?」
ハルの問いに、クズノハはハルの目を見つめてから、ゆっくり頷いた。そして銀色の瞳でじっと本を見つめる。その見つめる瞳には、非常に強い意思が籠っていた。
「……そうかい。あんたがそこまで言うんなら、きっと必要なんだねぇ」
ハルは理由を問う代わりに、クズノハの決意を肯定するようにその頭をなでる。店主は二人の様子を見てから硬貨の金額を確認すると、「……確かに」と短く頷いた。クズノハは、その本を両手で抱えて、まるで大事な物であるかのように、すぐさま収納をしていた。
店を出ると、街のどこかで正午を告げる鐘の音が鳴り響く。
ハルに手を引かれ、再び商会へと戻る足取り。ハルは
「驚いたねぇ、そんなに欲しかったのかい……」
と、どこか感心したように独り言を漏らしている。
麦わら帽子の下、クズノハは表情を動かさないまま、前を見続けていた。
今までの稼ぎの大半との等価交換。
ようやく手にした、野生へと至る切符。一歩一歩、石畳を叩く自身の小さな足音が、かつてないほど力強く響いていた。




