51話 黄金の街道と、轍の上の揺り籠
本格的な秋の到来を告げる冷ややかな朝霧が、村の輪郭を白くぼやかしていた。
カレンの雑貨屋の前には、二台の馬車が並んでいる。先頭はカレン自らが手綱を握る、居住性を重視した個人用の馬車。その後ろには、教会の紋章を控えめに掲げ、村の男を御者に雇った教会の馬車が続く。カレンは出発前の最終点検を終えると、大きな溜息を吐いた。
「いい、クズノハちゃん。今回は正規の同乗者なんだからね。そのソファの裏に潜り込んだり、変な隙間に詰まったりするのは、絶対に禁止よ。分かってる?」
半ば諦めの混じった釘刺しを、麦わら帽子を深く被った銀髪の幼子は、ふすっと短く鼻を鳴らして応えた。否定とも肯定とも取れない、だが妙に堂々としたその態度に、カレンは「……もう、ハルさん、しっかり見ててよ」と苦笑い混じりに手綱を握り直す。
クズノハは帽子の縁を指で少し上げ、銀色の瞳でカレンをじっと見つめ返した。隣でハルがその小さな手を包むように握り、深く頷く。
「カレンさん、そんなに苛めないでおくれよ。今回は、あんな無茶はしないさね。あたしがずっと付いているからねぇ……ね、クズノハちゃん」
ハルの声には安堵と、二度とあの日のような絶望を味わいたくないという静かな決意が混じっていた。
ハルは旅の細々とした荷物を手際よく収めると、クズノハと共に客室のソファへと腰を下ろし、自然な動作でその頭を撫でた。もうすぐ四歳になる頃合いか。当初に比べて身長も伸び、身体つきもしっかりしてきたが、その無茶の性質がいまだに予測不能であることに変わりはなく、ハルにとっては片時も目が離せない存在だった。
「さあ、出発ですよ。テレーズ様、準備はよろしいですか?」
後続の教会の馬車から、シスターが窓の外へ顔を出す。彼女の膝の上には、教区本部へ提出する精算書類の束があった。昨年、公務が終わったときには初雪が降り始めて村へ帰れなくなり、街での越冬を余儀なくされた彼女にとって、今回の遠征は秋の終わりが来る前に完遂しなければならない、時間との戦いでもあった。
「ええ、いつでも。……主の加護が、この旅にありますように」
テレーズの祈りと共に、カレンが鋭く手綱を振った。乾いた車輪の回転音が、霧を切り裂いて響き渡る。馬車は村の境界を目指し、緩やかな坂道を登り始めた。
初日の午前、街道は村を囲む山を越える難所に差し掛かっていた。喘ぐ馬を叱咤するカレンの声が、御者台から時折聞こえてくる。客室は激しく上下左右に揺れた。しかし、クズノハはハルの膝に手を置き、体を傾けたり太い銀色の尻尾を揺れに合わせて反射的に動かすことで、器用に重心を保っていた。
「クズノハちゃん、喉は渇いていないかい? お水をお飲み」
峠の頂上で一息ついた頃、ハルが水筒と簡単な食事が包まれた布包みを取り出した。
クズノハは水を受け取り、喉を鳴らす。続いて差し出されたサンドイッチを両手で受け取ると、ちびちびと少しずつ齧った。窓の外を流れる景色――遠ざかっていく山頂を、彼女の銀色の瞳は瞬きもせずに捉え続けていた。
山を下り、午後。馬車は平坦な街道へと入り、速度を上げた。
村は既に山の向こう側に消え、周囲には人影のない、乾いた草の海が広がっている。
クズノハは膝の上で、無意識に指先を動かしていた。胸元に下がる、銀色の狐の人形。自分自身の抜け毛で作られた、不格好な分身。
彼女はその小さな耳の先端を、何度も、何度も、指先でなぞる。
それが何を意味する動作なのか、中身である「佐藤」にも、まだ明確な解は出ていなかった。
やがて陽が傾き始め、初日の野営の準備が始まったのは、山から数時間は離れた、見通しの良い水辺だった。
馬車を停めたのは、街道から少し外れた場所にある、細い川が流れる平地だった。
夕闇が忍び寄る中、カレンと後続の御者が手際よく馬を繋ぎ、テレーズが手慣れた手つきで火を熾し始める。するとクズノハはすたすたと、迷いのない足取りで近くの茂みへと向かった。
「おや、クズノハちゃん、どこへ行くんだい。あたしも一緒に行くよ」
ハルが慌てて後を追う。クズノハは振り返りもせず、だがハルが追いつくのを待つようにわずかに歩調を緩めた。以前よりも足取りは力強く、背丈も伸びたが、草の背が高いこの平原では、目を離せば一瞬で姿が見えなくなる。
クズノハはハルの歩調に合わせながらも、地面の植生を鋭く観察していた。
クズノハが立ち止まったのは、湿り気のある岩陰だった。そこには、夏の終わりの名残を感じさせる瑞々しい野草が自生していた。クズノハはその一本を指差し、ハルの顔をじっと見上げる。
「まあ、これはセリの仲間かい? よく見つけたねぇ」
ハルがそれの若い芽を摘み取ると、クズノハはさらに別の場所に移動しようとする。ハルはその姿を穏やかな表情で見守りながら、後をゆっくり追いかけていった。
その夜、焚き火で煮込まれたスープには、摘みたての野草の爽やかな香りが混じっていた。
……ふすーっ
クズノハは熱いスープを慎重に吹き、喉へ流し込む。
カレンやテレーズが明日の行程や街での予定を静かに話し合う傍らで、クズノハは再び胸元の人形を指先でなぞり始めた。パチパチとはぜる火の粉が、銀色の毛先を赤く染める。
二日目。
馬車はさらに平原の奥深くへと進んだ。もはや山並みは遥か後方へと退き、視界のすべてが乾いた秋の風に揺れる黄金色の波に占拠されている。
馬車の揺れは前日よりも穏やかになり、車内には午後の日差しが眠気を誘うように差し込む。
ハルは、自分の膝の上で静かにしているクズノハを愛おしげに見守っていた。クズノハは眠ることもなく、時折、ハルから差し出される水や、取り出したビスケットをちびちびと齧ったり、胸元に下がった銀の狐の人形を、小さな指先で延々といじったりし続けていた。
のんびりと、あまりにも穏やかに流れる時間。馬車の轍の音と、時折聞こえるカレンの鼻歌。
その平穏さの中、クズノハの胸の内では静かに、着実に組み上げられていく計画の輪郭を、鋭く研ぎ澄ませているようでもあった。
三日目の早朝。
朝靄の向こう側から、巨大な石の壁が、眠れる巨人のようにその姿を現した。
「……見えたわよ! 門が開く時間には間に合いそうね」
カレンの弾んだ声が御者台から飛んでくる。彼女は振り返り、客室の窓越しにハルとクズノハへ明るく声をかけた。
「ふふ……ハルさん、街に着いたらクズノハちゃんを少し借りるわよ? この子の目ざとさを仕入れの目利きに使わせてもらうんだから。しっかり働いてもらうわよ、いいわね?」
ハルを気負わせないためのカレンなりの配慮に、ハルも「はいはい、こき使っておくれよ」と苦笑してクズノハの頭を撫でた。
クズノハはハルの腕をすり抜け、出入り口の隙間から顔を覗かせた。朝日に照らされ始めた石造りの壁は、圧倒的な質量をもって三歳児の視覚情報を埋め尽くしていく。
門の前には既に、開門を待つ十数台の馬車が列をなし、御者たちの怒鳴り声や馬の嘶きが、静かな朝の空気を震わせていた。遠くで街の始まりを告げる鐘の音が響き、巨大な鉄帯のついた門扉が、重々しい音を立ててゆっくりと開いていく。
クズノハは、その喧騒をどこか遠い場所の出来事のように眺めながら、自身のインベントリに収められた商品の在庫を脳内で最終確認していた。
銀色の瞳が、冷徹なまでの目的意識を湛えて、大きく開かれた門の奥を見据えている。




