50話 夏の終わり、遠征の算段
夏が、その最後の熱を振り絞るようにして村を焼いている。
窓から差し込む陽光は既に秋の気配を孕み、少しずつその角度を寝かせ始めていた。クズノハは、目覚めと共に意識の片隅でインベントリを展開した。
空中に投影される半透明のリスト。
初期資金に、村でのお使い報酬として積み上げてきた端銭、春から夏にかけて平原で採取した薬草……特に、時折採取できた希少な薬草の市場換算見積もり。具体的数値を弾き出すまでもない。脳内のスプレッドシートが示す合計値は、既に目標の縁をなぞっている。
(……足りる。街のギルドにこの在庫を直販し、中抜きなしの適正価格で捌けば、獣化の書の相場には確実に届くはずだ。端数で食料を買う余裕すらあるな……)
佐藤は、幼児特有の短い指先で、自身の胸元に下がる不格好な銀の人形をなぞった。
冬から夏、この不自由なアバターで過ごした観測フェーズはこれで終了だ。これより、スキル獲得による「野生化」――プロジェクトの核心部へと移行する。
朝食を終えると、クズノハはいつも通りに外へと飛び出した。
まずは隣家、ベルナデッタの元へ。彼女の息子である鍛冶師ガラムへ届ける弁当を預かりに行く。
「あら、クズノハちゃん。今日も元気だねぇ」
ベルナデッタは、庭先で土まみれになりながら顔を上げた。その足元には、カブの芽やジャガイモの葉が生えている。どうやらジャガイモの土寄せという重労働と、カブの芽を一つ一つチェックして間引くという根気のいる作業が重なっているようだ。
「ハルさん、悪いねぇ。これから秋野菜の手入れと冬越しの準備で、腰を据える暇もなくて。クズノハちゃん、ガラムのやつまた仕事に没頭して飯を抜いてるだろうから、頼んだよ」
クズノハがそれを受け取る。そして、その会話を情報の断片として冷静に処理した。
(ベルナデッタは農作業のピーク。つまり、今回の計画には同行できない……か。……まあいい)
その後も、村の中をお使いに回る。ハルと手を繋ぎながら、クズノハは淡々と目的地へ最短距離で向かう。途中で雑貨屋へ寄り、カレンが馬車の車輪に油を差している姿を視認する。彼女の表情には、長距離移動を控えた商人の緊張感が漂っていた。
「あら、クズノハちゃん。今日は配達物はないわよ? 今は街へ行く準備で忙しいの」
カレンの言葉に、佐藤は小さく頷く。佐藤は脳内のマップを更新した。具体的な整備の進捗度は不明だが、近日中に出発することだけは確かなようだ。
お使いの終点は教会だった。庭では、シスターが例年行っている街への公務に向けて、馬具の手入れをしていた。泥を落とし、革を磨き上げるその手つきは、どこか儀式的ですらある。
「クズノハ様、お疲れ様です」
傍らで見守っていた神父が、穏やかな微笑みを浮かべてクズノハの頭を撫でた。
「これは、お礼のクッキーです。私が焼きましたので、良かったらいかがですか?」
差し出された布包み。クズノハはそれを両手で恭しく受け取り、ぺこりと頭を下げる。
(いつもの食糧、高効率。いつも通りの神父謹製。……これで、道中のリソースはさらに上積みされた。街に移動する主要ユニットはカレンにシスターか……。そして俺については、この強固な監視役をどう動かすかだな)
佐藤は、ハルの温かな手を見つめた。
前回の密航で、彼女をどれほど狼狽させ、怒らせたかは理解している。だからこそ、今回は隠れない。
隠れるよりも確実で、かつ安全な正規ルートを、力業でこじ開ける準備を整えていた。
昼食を終えた昼下がり、クズノハは再びハルの手を引き、カレンの雑貨屋へと向かった。
店先には、午前中に整備されていた馬車が鎮座している。カレンは店と馬車を往復し、常備させておく細かな日用品や、道中で使うための備品を運び込んでいた。
「あら、また来たの? クズノハちゃん。さっきも言ったけど、今日はお使いの荷物はないわよ」
忙しなく手を動かすカレンに、クズノハは一瞥するとハルと共に店内に入る。そして迷いのない足取りで棚の間を抜けた。
選び取ったのは、堅焼きのビスケット、数種類のドライフルーツ、そして素焼きのナッツが入った小袋。それは以前、神父が街へ向かった後にクズノハが買い揃えたものと、全く同じラインナップだった。
「……え」
店内にカレンが入ると、カウンターに置かれた品々を見て、カレンが固まった。
クズノハはこれまでのお使いで貯めた銅貨を、一枚ずつ丁寧に、だが事務的な手つきで並べていく。その銀色の瞳がカレンをじっと見つめた。
「ちょっと、これ……。クズノハちゃん、あんた、まさか」
カレンの脳裏に、あの雪の朝の光景が蘇る。神父を慕って寂しそうにしていたはずの幼子が、実は周到に兵糧を整え、文字通り馬車に潜伏していたあの事件。
「駄目よ。今回は絶対に乗せないからね? 次は出発前に、私は毛布の一枚まで全部ひっくり返して確認するんだから」
カレンの拒絶を背に、クズノハは支払いを済ませると、購入した食糧をインベントリに放り込んだ。そしてそのまま、店先に停まった馬車のステップへと歩み寄り、当然のような顔をしてそこに腰を下ろした。ふすーっと鼻息を吐き、それはどこか誇らしげでもあった。
「……邪魔よ。今は忙しいんだから、邪魔しないでくれる?」
カレンが店内から飛んでくる。クズノハの小さな脇を抱え、ひょいと持ち上げて数メートル離れた地面に降ろした。
だが、カレンが手を離した次の瞬間には、クズノハは既にステップへと戻っていた。磁石が吸い寄せられるような、淀みのない動きだった。
「もう! どきなさいってば!」
再び抱え上げようとするカレン。しかし今度は、クズノハが重心を低く落とし、短い足を馬車の木枠に巧みに引っ掛けた。
カレンは引っ張るのだが、相手は傷つけてはいけない三歳児だ。無理に引き剥がせば脱臼させるかもしれないという事実が、彼女の力加減を著しく鈍らせる。
手を外せば別の場所を掴み、抱えればエビのように跳ねて腕を絡める。頬を膨らませながらの無言の、だが徹底した物理的な抵抗。
「なによ!なんなのよ、この吸着力……! 離しなさい! 整備ができないじゃない……ほんと、冗談じゃないわよ! 次は途中で魔物に襲われたらどうするの? あんたの命に責任なんて持てないわよ!」
カレンの悲鳴に近い声が響く。数分後には、クズノハはステップを突破し、居住スペースのふかふかとしたソファにまで侵入していた。奥へ、奥へと潜り込み、背もたれと壁の間にその身を楔のように打ち込んで動かない。
「ちょっとハルさん! ハルさん、何とかして!!」
店の奥で様子を伺っていたハルが、たまらず駆け寄ってくる。ソファの隙間で頑として動かないクズノハを見て、ハルは深い、深い溜め息をついた。
「クズノハちゃん……。そんなに、そんなに街へ行きたいのかい……」
クズノハは答えず、ただじっとハルを見つめ返した。その瞳には、子供らしい我儘ではなく、目的を完遂するまで決して引かないという執念が宿っていた。
「……ダメだわ、カレンさん。この子、置いていったらまた死ぬ気で隠れて乗るよ」
ハルは、自分の震える手を見つめた。あのクズノハが消えた日、凍えそうな雪の中で恐怖は、今も消えていない。
クズノハを隔離して閉じ込めておくことはできない。ならば、自分の目の届く場所に置くしかない。
「カレンさん……すまないねぇ。あたしも、街へ行くよ。この子の隣で、ずっと見守るために」
カレンは、ソファの隙間に埋まった銀髪の幼子と、苦渋の決断を下した老婆を交互に見て、がっくりと肩を落とした。
「……分かったわよ。ハルさんが見ててくれるなら、乗せなさいな。その代わり、街に着いたらこの子の観察力を私の仕入れに貸してもらうからね! タダ乗りなんて、絶対に許さないんだから!」
勝利が確定した。満足げな鼻息がふすーっと漏れる。
佐藤は脳内で、プロジェクトの進行状況を「フェーズ1:完了」へと更新した。
ハルの同行という監視は続くものの、正規の座席を手に入れた。あとは街に到着し、予定通りに獣化を習得し、この不自由な肉体を捨て、自由な四足歩行の野生へと至るだけだ。
「よしよし、いい子だね。……じゃあ、準備をしようねぇ」
ハルの温かな手がクズノハの頬を撫でる。
その愛情を利用した自覚はあった。だが、佐藤にとってそれは、目的達成のための最も合理的なコスト計算の結果に過ぎなかった。……指先に伝わる老婆の震えが、計算式に微かなノイズを走らせた気がしたが、佐藤はそれをアバターの触覚センサーの過敏反応として即座にシャットアウトした。自分は間違っていない……そう、その筈なのである。
秋の足音が聞こえる村に、馬車の車輪が回る予兆が響いていた……。




